人知らざるを患うるなり(人を知らないことを恥ずかしく思う)

投稿日:2015年1月25日 更新日:

論語・学而第一の最後の文章に、
「子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患えるなり」

意味=人が自分のことを評価してくれないことをうれえないが、
自分が人のことを知らないことを恥ずかしく思う。

創業、間もない頃恩師小田切先生から10歳年上の人を紹介してもらった。
会社も5~6人になり、保険や経理の仕事が必要になってきたときだった。

総務と経理を見てあげるということで入社してもらった。
実務体験もあり信頼して任しきっていた。
信頼でなく丸投げの依頼していたといったほうが良いかもしれない。

ある日、実際の営業や工事もやりたいということになって、
心臓病で大会社の勤めをやめられたと聞いていたのでやめるようにといったが、
強く役に立ちたいといわれ、営業や工事現場を体験してもらった。

しばらくして自主的に退社された。
実際は営業所ひとつ騙し取られ、自分で石屋を独立されたのである。

腹が立って早速、恩師に「なんと言うことですか」
「先生が推薦する人だと信じていたのに」と怒りをぶつけた。

そのとき恩師から返ってきた言葉が、将に論語の「人を知らざるを患える」である。
恩師は「紹介はしたが、君には人間を見る眼がないのか?」と逆に怒鳴られたのである。

なんと無責任な紹介だと怒りを覚えたが、
自分の依頼心に気づき反省せざるを得なくなった。

もちろん短時間で、この文章のように簡単に心が穏やかになったわけでなく、
私から見たら裏切った本人を殺したいぐらい憎みましたし、そんな行動もした。

そのとき仲間が、一時の感情で人生を台無しにせず,仕事で見返そうと結束したんですね。
恩師から人間を学ぶことの大切さを教えてもらったのだと自分を納得させた。

論語を読むと、ほんとうに立派な政治をする人物が描かれている。
ところが論語は孔子が亡くなって100年もあとに編纂されていて孔子は知らない。
だから立派な問答するつもりで話したのではないと考えるのが妥当だ。

私の読み方は孔子さんに大変失礼かもしれないが、論語を等身大で読む。
孔子さんも500年前の魯の国を造った周公に学び、
礼を重んじ行動する人を尊んでいて自分もそんな人物になりたいと実践していたに違いない。

学而第一に「未だ貧しくして道を楽しみ、、富んて禮を好むものには若(し)かざるなり」

意味=しかしね、貧しくても心ゆたかに人の道を履みて行うことを楽しみ、
富んでも、ごく自然に禮を好んで行うものには及ばない。
とにかく実践する人を尊ぶが、孔子も自分に言い聞かせていたのではないかと察する。

さて自分もブログに書くようになって、できてない自分の姿ばかりを感じざるを得ない。
発展途上人が自分がブレないように書いているたわごとに過ぎないと自覚する。

皆さんは自分つくりの基準どう作られてますか?

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