自分育てとは外から見る客観的自分を創る

投稿日:2014年12月24日 更新日:

親からもらった身体と親の価値観の影響で20歳ぐらいまでは生きてきますが、
20歳過ぎると自分で自分を創らなければなりません。
それが大人になるということである。

ところが、実際はなかなか簡単ではありません。
どんな自分を創るのかまったくわからないのが現実だ。

そこで、他人を観察して良い見本を見つけるのですが、
なかなか良い見本がないのも事実だ。

友と語らい、よき師を見つけるのが順番だが、
本当に心許す友や師と出会うには、
自分から積極的に接するチャンスを作ると同時に友と、師を100%受け入れる覚悟もいる。
本気で学ぶ姿勢が問われる。

私はよき師や友に恵まれた。
だが自分の自我が強すぎ、
自己中心的な独善で、随分回りに迷惑をかけた。

そこで友師という人間で無い友といえば、尚友(故人、書物の中の先哲)に学ぶ以外にない。
幕末の吉田松陰も自分創りに欠かせない人物だ。

松陰曰く『体は私なり、心は公なり。
私を役して公に従う者を大人となす』
意味=身体は私であり、心は公である。

実は私はまったく逆の考えで生きてきたのであったといわざるを得ない。
身体は何ぼ使っても減らないもので自分のものとは思わず欲望のままに無茶苦茶使い、
心は自分のものと自分の自己実現や「自分のおもい」を達成するために使う利己心を創ってきた。(公の思いにまで昇華されていない利己的思いのレベル)

大人は目指すもので、自分にはなれないと始めから思い込んでいたようだ。
(逆からいうと我がままを通したいためであったかもしれない)
8年前に心臓病で入院したときにはっきりそう考えて行動していた自分に気づいた。

「俺は世のため人のためにやってきた」のになぜ病気になると考えたからだ。
思い上がりもいいとこで、自分の利己心、一面的な独善のために、
回りを振り回しただけに過ぎない自分に気づいた。

怒りや、恐れや、悲しみは、自分がこれだけやってるのに誰もわかってくれないという表現いすぎない。
その心は行動として、自分の不安を周りに撒き散らしてきただけである。

『至誠にして動かざるものは未だ之に有らざるなり』
意味=真心を持ってすれば、不可能なことはない。

孟子の言葉であるが、松陰はこの言葉を実践し生涯貫いた人物である。
私は未だ小人(こども)であり、
自分を客観的に外から見る自分を創る大人(おとな)になる過程であり、なりきっていない。

気づいたから即行動ができるかといえば、なかなか今までの癖は抜けない。
しかし、心を公にすることこそが幸せな人生が送れることだと腑に落ちたことは間違いない。

大人(おとな)になるには外から行動する自分を見る客観的自分をより成長させる学びの姿勢がいる。
論語をかかれている孔子の言動は、
彼の生きた時代より500年も前の周の時代の文王,武王の政治に学んだのである。
先哲に学ぶには赤ちゃんのような純粋な素直な心がもっとも必要だ。

皆さんは自分創りどうされていますか?

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