好きと愛

投稿日:2015年3月27日 更新日:

好きの反対は嫌いだ。
愛の反対は憎しみだ。
マザーテレサは「愛の反対は無関心だ」という。
日本人は好き嫌いをはっきり言わず、
他人や世間に合わせ、世間や他人と同調し調和させる、「和」を第一義にする習慣があった。
私は自我と無我を持った曖昧な日本人気質がとても気に入ってる。

ところが、戦後はこの曖昧な日本人は全体主義になると否定された。
民主主義を実現するために「個」という「我」を形成する教育を受けてきた。
「自分の我」を認めるのは良いが、意見の違う「他人の我」も認め、
互いが議論して調和するなら問題はない。
しかし現実は違う。
一方的な権利意識の「わがまま主義」がはびこってるように感じるのは私だけだろうか?

「好きこそ物の上手なれ」と言われるように、
好きでなければ気が乗らないし本気になれないのも本音だ。

論語雍也第六「子曰く、之を知る者は、之を好む者に如かず。
之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」

意味=知る者は好んでやる者には及ばない。
好んでやる者は楽しんでる者には及ばない。

知より好、好より楽である。
さらに遊を加え、
遊ぶものに如かずではどうだろう。
好きは先天的(本能的、内在的)に宿った「性」であり天分であろう。

之に目覚めるのは素晴らしいが、楽しむまでには努力がいる。
その性分を磨く、磨き続ける努力を愛と言う。

好きは自分が満足して楽しむが、
愛は他人や世の中を良くする志を立てた努力によって実現される。
言い換えると利他的な行動がいる。
それを磨き続ける強い意志もいるのである。

芳村思風先生は「心=意志の力×愛の行動」の利他的行為をすることだと断言される。
心を高め、磨き続けて努力する中に「愛」が現れるとおっしゃられる。

好きなことは何時までもやっていたいと思うのは利己的な自発性だ。
愛は違う。
自己をなくし「私心なく動機善」と利他的自発性でなければならない。

人間の保護本能は安定を求め、変化を嫌う。

しかし、好きを超え、愛のレベルになると、
自ら変化を求め、安定より成長したい欲求が湧き、
他人や世の中を良くなることに喜びを感じる自分が出てくるのである。
その愛を支え努力し続けるには強い意志がいると先生はおっしゃる。

家族を愛し、他人を愛し、社会や世界、地球を愛する大きな愛の心を磨く。
愛の行動を楽しくなるまで続ける意志があってこそだ。
ただ知ってるだけのばか者の自分がいる。
傍観者で評論家の自分と知識の羅列は要らない大反省だ。

皆さんは何が好きで、何を愛してやり続けてますか?

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