今に生きる

投稿日:2020年5月11日 更新日:

「今に生きる」には二つの側面からきたるべき未来をイメージしたり創造することが自分の今の行動を決定するに違いない。
ではどんな切り口で考えるかというと「歴史に学ぶ」ことである。具体的には社会の形とそこからくる人間の意識の変化を読み解かねばならない。
とはいえ、縄文や弥生時代までさかのぼらなくても近代の始まりの明治の社会の変化を見ることは意味がある。

江戸時代の身分制度は「士農工商」という階層の秩序があった。武家は武士だけが集まるところに住み、百姓は「村」という集団を作って、
町人は「町」に所属する。村では「村請制」と言ってまとめて年貢を払っていた。1873年の地租改正で個人が責任もって納税することになり、
職業とは関係なく自治体ができたのである。藩を壊して中央集権的な体制ができたことによって市場経済が導入されたのである。
これは大変な変化が起こったのである。自分で何かを生み出し、商品として売って生計を立てる。もちろんそんなことどうしていいかわからない人がいっぱいでて、
政府は今でいう生活保護制度を作ったのである。障害者や70歳以上の高齢者、病人、13歳以下の児童を救うことにした。

しかし、明治の混乱期は江戸時代の道徳観で「倹約、勤勉」といったことが規範が当たり前と上からの押し付けで、
貧困者は怠けているということで助けられなかったのが実情だった。大変厳しい時代であることは間違いない。
さて、倹約勤勉の意識が土壌となり、その後の政府の殖産興業が成功し鉄道網の整備、機械性工場をして黒田清隆などによって民営化は否定された経緯がある。
一方では富国強兵を推し進めるのである。現代のような自由と平等の近代化ではなかったことは察せられるのである。

今コロナウイルスが教えるのは、強権力のある全体主義か民主主義か、また監視社会か自由社会かである。もちろん自由社会で民主主義を目指すだろう。
しかし大事なのは国民の働き方改革面と自己形成の面が重要な課題である。当然、経済的には効率と効果を求め機械化を進め、IT化も進めなければならないし、
二宮尊徳の「勤勉、倹約、推譲」といった国の一員として規範を守り働く意識が形成されると同時に個々人の納税の責任が課せられていることから、
その意識が困窮者を助けて互いが協力し合う愛ある利他心を自ら育てているかが問われる。この内面の心を高めているかがこれからの社会の発展に大きくかかわってくるに違いない。

今を生きるには、この果てしなく行動し続ける「勤勉、倹約、推譲」の心持と他人を愛する利他の心を育てていくことが務めである自覚がいる。

今に生きる皆さんは「今を生きる」を好き勝手に生きると思いますか?

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