諸子百家時代の法家・商鞅と一休

投稿日:2020年6月8日 更新日:

2400年ぐらい前の戦国時代の人・商鞅(公孫鞅)BC390~BC338年衛の国の皇室の生まれ、
戦国時代に趙の属国になり、没落貴族になるが反骨精神だけはあった。彼は孔子や孟子が出る70数年前の時代を生き抜いた。
当時の家塾の師が刑名の学(法家)の専門家であった。そこで法律で国家を治めることを旨としていた。
秦の孝公に合うべく手配して宦官景艦(けいかん)に頼んで四回謁見する。一回目は帝王の道を説き、二回目は王たる道を説き、
三回目は覇者の道を説き、四回目に変法(富国強兵策)を説いた。その時孝公は意気投合し、召し抱えられることになった。

第一次変法で開墾政策をやって、開墾地を使用することを認め十分の一を税として重農主義政策をとった。
見事に成功して豊かになっていくのである。その後第二次の変法を開始する。まず貴族が奴隷に農地をやらしていたのを廃止して、
勢力を拡張しないようにした。次には全国に県政を引いて中央集権的な管理をする。
さらに度(長さを決める)、量(体積を決める)、衡(重さを決める)の統一をはかり民には刑罰を厳しくしたのである。
自業自得というか考公がなくなって間もなく、商鞅を憎む貴族や叔父を殺された恵文王によって商鞅逮捕令が下され、車裂の刑で処刑されることになった。

その後秦は勢力を増して始皇帝が全土を統一するが、あまりにも法が細かく厳しくなって長くは続かなく滅亡し漢の時代となる。
劉邦は秦の政治を見て、法を厳しくせず「法三章」とシンプルにしたのは言うまでもない歴史的事実だ。
法を創るのは人間だから、支配するものは懼れによって厳しく細かく身を守るためになるのも致し方ない。

隣国の大統領が変わったら罪人となって裁かれている現代と2400年前の政治とあまり変わらないように感じるのは私だけだろうか?
日本には500年前に天皇のご落胤として生まれ、一風変わった生き様をした人物がいる。一時は政治に関与もしたが、権力闘争にあきれて、
京都は田辺の寺で生きたのは一休さんだ。
一休の逸話に面白いのがある。一休「ここに書き物をしたためた。本当に心底困ったら、この封書を空けるがいいめったなことで開けるな」といい残して死んだ。
いろいろ困ったことがあったが、何代かの住職は開けなかった。とことん困ったことが起きて空けざるを得なくなったので封を切って開けた。
そこに書かれていたのは財宝のありかでも、解決方法でもなく「なんとかなる心配するな」であった。

世界的なコロナ感染で日々の生活の先行きがわからず右往左往してるのが我々だが、一休に習って腹を決めることだ。「何とかなる心配するな」
一休は決して何もしないで何とかなると言ってるのではない。人間存在の矛盾という課題、生きたいしかしもっと安定した地位が欲しいという矛盾が商鞅だろう。
生きたいしかし人間の身体と精神の総合という矛盾、有限と無限の矛盾、時間と永遠の総合であるが故の「絶望」ととらえたのはキエルケゴールであり、
一休もキエルケゴールのように根本矛盾に気づいたからこそ政治の世界から離れ、生きるため矛盾から逃げるのではなく、立ち向かえというメセージが「何とかなる心配するな」
今やるべきことをやれと自分を励ましているのだろう。

アジアの中でも歴史が違うと処し方も違う。歴史はどんな指針を問うてるか自問自答するしかない。

皆さんはコロナ感染と生活の矛盾をどう対処されてますか?

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