茶道に学ぶ

投稿日:2020年6月11日 更新日:

茶道は15年ほど裏千家の業躰先生に学んでいました。
利休は「茶の湯とはただ湯をわかして茶をたてて 飲むばかりなることと知るべしう」

平面的にとらえると、「そうだ」ということになるが、茶道のお点前にはいろんな規則があって、
それにのっとって所作をするのである。言い換えると術、手段を大切にする型がある。
でも、それだけでは茶道にはならず心構えも学ばねばならぬ。
茶室では日常的なものをすべて否定して、一切の妄念を払い清浄な人間本来の心にうらづいて境に達する。
この精神性を大事にするのであるが、それではまだ茶道ではないというのである。
「あるがまま」にすらすら何の不安も疑念もなくお点前をし、主客を和ませるにはさらに奥がある。

このことを仙厓和尚が「茶道極意」に「夫れ茶道は、心に在って術にあらず、術に在って心に在らず、心術並びに忘ずるところ、一味常に顕るるなり」
意味=茶道は精神面が大切であるが技術面も大切です心も術も両方忘れるところに「ありのまま」があり、一味が常に現れるというのである。無心に茶をたてる。これが真の茶人だ。

しかし、この現実の世界では生と死、善と悪、愛と憎、苦と楽というように二元対立させて考えるから、
自然と迷いの心が生じ安心立命の生活が送れないのが凡人の私たちだ。

その域に達した人は「ありのまま」の裏には血のにじむような茶道を究める努力があって平気な顔して淡々と行動する。
禅ではこれを「両忘」といって「両頭共に截断」する。心術を忘れる。または談じる。すなわち「無心」を「ありのまま」という。

「ありのまま」を南泉和尚の言葉で表現すれば「道は知にも属せず、不知にも属せず。知はこれ妄覚、不知は是れ無記。もし真に不疑の道に達せば、なお太虚の廓然として洞豁(とうかつ)なるが如し。あに強いて是非すべけんや」

意味=道がわかったといってもいかん、わからんといってもいかん。わかったといえば分別に落ちる。わからんといえば無自覚というものだ。それはカラーッと晴れた大空のようなもの、ああのこうのと是非分別を入れる余地はさらさらない。「ありのまま」

皆さん茶道を湯をわかしたてて飲むと思われますか?

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