「不老不死」を求めるのは生の現実肯定

投稿日:2020年10月10日 更新日:

中国の道教は仙人思想で「不老不死」を求めた。
生を長く保ち続けるために不老長寿の薬を求めたと歴史に書かれている。
キリスト教の世界も生の肯定で思いっきり生きることこそ自己尊厳であり、自らの欲を満足させることに努力すること神の御心とする。

イギリスから起こった産業革命により勃興した資本主義社会は生産力を向上させ、豊かな富を築くことを目指して技術の妙なる革新によって社会生活を築き上げた。
競争と信用という二つの条件を満たせば発展成長するのである。

日本の仏教的な考えは全く違う。
輪廻転生と言って、人間は現世で良きことをすれば人間に生まれ変わるが、
悪き事をすれば虫や動物になるというとらえ方をする。
だから善行すると仏になるというのである。(成仏)
以上のように考えるからと言って、現実否定している考え方ではないのである。
ここには「業」(カルマ)という考え方があり、過去現在未来という生の時間的つながりがあると考える。

さて、禅ではこれをさらに突っ込んで「今」しかないと言い切り諭す。
「教外別伝 不立文字」と言って、現実は文字にした瞬間事実と反するというのだ。
文字にすると相対二元の世界(分別知)となるからだ。
「生死一如」無分別智という教えである。
ゆえに老もなく、病もなくただ毎日息をしている事実がある。

馬祖道一禅師(709~788)が病気で休んでおられた。
ある時、道場の監督層が「老師、お具合はいかがですか?」と聞くと、「日面仏、月面仏」と答えられた。
「日面仏」=1800年生きる長寿の仏さん。
「月面仏」=一日一夜を生きる短命の仏さん。(仏名経)巻七に出ている。
ここがすごいとこである。
禅師が伝えたかったことは、長く生きるのがよいとも短く生きることがよいとも言っていない。
そんな時間の問題ではなく、長く生きたいとか、早く死にたいと観念的に考えることではない。
ただ息を吸って息を吐く、自分のなかには二人の仏が住んでおられることだ。長い短いは仏まかせということだ。

現代はバーチャルな世界が発展して、本も紙でなく、データーで保存する時代になっている。
劣化していくことが美だと「滅びの美学」を提唱したのは奈良教育大の寺尾勇先生だ。
一方で不老不死を求めいつまでも若々しくありたいと願う現代社会が、ハイテクを駆使して創り出す社会の中で暮らしていることが事実だ。
大きな大木でなく柳のように生きる日本文化を玉虫色であいまいという人がいるが、自由と責任(分別知)のはざまで苦しむのでなく、もっと自在に生きることを馬祖道一禅師は諭しているように聞こえる。

皆さんは不老不死を求めていますか?

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