分別以前の「ある何者か」

投稿日:2012年1月7日 更新日:

現実は右左、善悪、貧富などと二つに別ける。
これを仏教では分別知といって現実の浅い知恵だと切り捨てる。
分別する前はどうな状態だったかというと紙幣のようなものだ。
1枚の紙におもては福沢諭吉で裏は鳥の図柄で福沢諭吉ではない。

でも一万円として使える。

裏も表も同じ福沢諭吉だと『偽札』だ。
言い換えると本物の人間なら健康な細胞(仮に表)と、
病気になる細胞(仮に裏)が裏表になっているのと同じだ。
全く違う概念が背中合わせで一体のものなのだ。
身体や、精神が異常に一方を使いすぎると、「ある何者か」がバランスを取る。

病気の細胞(バクテリアみたいなものを創造ください)が健康な細胞より勝ると熱が出て動けなくなる。
身体を休め一日中寝ると回復する。
自分の意志とは無関係だ。「ある何者か」が仕事をする。
これを村上和雄先生は『サムシンググレート』と名づけられる。
では表を大事にするのと裏を大事にするのではどちらが優先するかを考える。

論語の憲問第十四に「子曰く、貧しくして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し」

これは管仲(斉の大夫)を誉めた言葉だ。
意味=貧しくても怨みがましくならないのは、むずかしいが、
   それに比べて富んで驕り高ぶらないのはたやすいことだ。
表ばかり見つめて裏を手入れしないのはいかがなものかという意味だ。
柔道も技をかける練習より受身の練習が先だ。
相撲も勝ったほうを誉めるより負けたほうを応援することが謙譲の美徳で、
行司は『はっけ良い残った残った』と負けてる側に声援するのだ。

なんと自然な宇宙のバランスではないか?

聖徳太子が『和を以って貴し』という自然との共生を大事にしたのは、
個人性と社会性を統一させる共同体実現であり、宇宙のバランス感覚だ。

日本の農耕文化には自然との共存共栄が欠かせなく、
共同体の精神的支柱が出来上がってきた。
その基本が自然崇拝と先祖供養なのだ。
自然と自分の先祖への感謝から自分を見つめるのだ。

みなさんもサムシンググレートの存在感じられますね!

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