顔淵に学ぶ

投稿日:2019年3月5日 更新日:

論語の「顔淵第十二」で、仁と礼のことを孔子は語っている。
中国古典は道徳的で、規律や規範を守り、不自由だと感じる人もいる。
特に戦後の日本は、アメリカの自由主義を旗印にした資本主義経済圏で発展した。
勿論、国内ではアメリカの属国になるのでなく、
未来の国の姿は共産主義的理想だと考える左翼の人たちがいて、
それに触発された学生が革命を起こすと動き出した歴史がある。

その時代の教育者は左翼的な立場の人が多く、
儒教とは対極的な「自由」を旗印にしてた。

本来、自由とは自立と責任に裏打ちされ、
自分と違った意見も受けいれるという個人主義的自由でなければならない。
ところが、無責任で欲望のまま、したい放題の自由となり、
すべて体制が一部の権利者を保護しているという観点での活動となり、
利己主義的自由、言い換えると動物的な欲望主義という自由に過ぎなかった。

儒教とは対極の老荘の自由は、動物的自由ではない。
人間社会の窮屈から脱する自由であり、欲望を捨て、
清貧な生活(山にこもりひとり隠者生活)をいとわないという心構えだ。

際限のない欲望と権利主義の動物化した利己主義的自由とは違う。

アメリカにはベースとしてのキリスト教社会があり、
宗教観が歴史的にはベースとなっていたのである。
日本は八百万の神がいて、自然を崇拝するベースがあったが、
戦後の左翼の自由主義運動を自然崇拝と同じように受けいれてしまった結果、
道徳観の学びが学校でも全体主義だと授業がなくなったのは事実だ。

政治家をこけおろし、すべての責任は国(抽象的な者)に押し付け、
国民がよい国家の作り手でなく、
国家にぶら下がるような政治手法が蔓延しているのである。
これを大衆迎合主義のポピュリズムというのである。

さて、顔淵の最初のくだりに、
「顔淵仁を問う。子曰く、己に勝ちて礼に復すを、仁と為す。
一日己に勝ちて礼に復すれば、天下 仁に帰す。
人を為すは己に由る。人に由らんや、と」
「顔淵曰く、其の目を請い問わん、と。
子曰く、礼に非ざるもの視ること勿れ、非礼聞くこと勿れ、
非礼、言う事勿れ、非礼 動くこと勿れ、と。」
「顔淵曰く、回不憫と雖も、請う、その語を事とせん、と。」

<意味>
顔淵が仁とは何かと問いました。
孔子先生は、「利己を押さえ社会の規範(礼)を守り、仁(人の道)である。
その事が一日、実行できたら世の中の人々は仁を実行する事になる。
人の道を実践するのは自分の覚悟であって、他人に頼ってできるものではない。」
顔淵がさらにたずねて、「その実践内容はどんなものですか?」
孔子はこう答える、「規範でないものは視るな、聞くな、言うな、動くなと言い切る。」
顔淵が即座に答えて、「至りませんが、そのことを第一にして生きていきます。」

こう答えるのである。
孔子が顔淵の方が早く亡くなって、大声出して泣き叫んだと論語の中にも書いてある。
老子のように生きることもできないが、社会の規律をしっかり守って、
自由自在に生きることが実践できなければ、口先だけの人間になるのは確かだ。

皆さんは顔淵から何を学びますか?

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