空気が読める日本人

投稿日:2012年5月26日 更新日:

空気が読める日本人
戦後の日本の高度成長は昭和の42~43年の神武、岩戸景気で、
私が就職する40年代中ぐらいからは給料が倍、倍にあがった記憶がある。

戦後の生まれだから戦前の軍国的な集団を第一に考える事や、
仕事は役に立つ奉仕的な精神で行動する雰囲気があり、
とにかく貧しさを克服しアメリカのような大型冷蔵庫を買ってマイホームを持つ夢があった。

青年になるまでの教育はそんな空気と、
一方では民主主義の台頭で自分で考え自分で判断する欧米の考えがぶつかっていた。

「すいません」と言う言葉がいつも出る。
日本人的だとおっしゃるのは榎本博明さんだ。

私も空気を読んでその場の雰囲気でお互いの面子を立てながら、
悪人を作らないコミュニケーションを取ることを無意識にできる。
そのときの言葉に「すいません」を使う。

榎本さんによると「状況依存社会」といって欧米のように原理原則で議論するのでなく、
具体的な状況で行動が決まる社会であると断言される。
だから確固たる自己があって自己主張するのでなく、相手の間柄によって自分を決める。

だから正論は無い、答えはひとつでない発想をする。
八百万の神様を受け入れる柔軟な考えでもあるともいえる。
寛容で、寛大だともいえるが、欧米の一神教から見るとあいまいで優柔不断な性格となる。

原理原則に基づく議論は今の中東のようにの戦い、イザコザが後を絶たず、
少し心が狭量な感じがするのは日本人から見た場合だ。

外国人から見て一見意味のない会話にも実は意味があるんだ。
それは会話の内容というより「場」の雰囲気を和ませるという意味がある。
荘子の「無用の用」ということだ。

一つの正論を主張しすぎると必ず他人を傷つけるのだ。
空気の読める日本人は年齢関係、地位関係、役割関係、親密さ、などで
「自分」のことを「僕」とか「私」と言ったり、敬語を使うか決めるのだ。

平和な時と戦いのような状態の時には心構えが違うというのは岡倉天心が「茶の本」に記している。
平和時には浄土真宗〔他力〕で戦いのときは禅宗〔自力〕だ。〔自性了解〕
平和時には儒教で戦いのときは道教だ。
平和時には集団的基準で、状況が厳しいときは個人が自問自答する厳しい姿勢となる。

利休が秀吉に茶の心とは「和敬静寂」
自問自答し築きあげる静寂で古びたものは古びたように〔侘び〕、(さび)世界観だ。
それを一歩も譲らなかったために切腹させられたのだ。

みなさんは空気の読める日本人ですね?

-生き方
-