「食」は良い人になると書く

投稿日:2012年5月28日 更新日:

「食」は良い人になると書く
母が小さい時、口うるさく、
「ご飯はお百姓さんが一生懸命つくったから一粒も残さないように」と、
いつも茶碗の米粒をみんな食べなさいといわれた。
無意識にご飯を残すのは悪い事という感覚があり、
おかずもご飯もみんな食べ、米粒一つも残さないように身体が反応する。
これが「躾け」=心の働き方なんだろう。

「喰う」というのは動物が本能的に口に運んで食物を身体に入れることで、
人間の「食」は違う。
木が炭酸同化作用によって二酸化炭素を吸ってくれて、酸素を人間に供給する。
こんな関係に出来てるのを仏教では「縁」と言う。

仏教では十界といって命がどの界に生まれるかを教えるのである。
衆生=命あるすべてのもの。〔人間が煩悩に振り回されてる狭義の命を指すのではない〕
われわれの命は人間界に生まれた。
人間界は「考える」世界だ。

「喰う」世界でなく、「食」=人間が良くなる食べ方を考えるのだ。
肉体的な側面での物質的なアミノ酸とかビタミンとかの摂取で身体を作ることも大事であるが、「感謝」して食べることの心の働き方が大事だ。
「いただきます」とは自然に感謝して食べる心を表現する言葉だ。

先ほども書いたように「縁」によって大自然の大きな循環法則に則って生かされてるのが
事実だ。
さらに、人間界の中でも他人のお世話にならずには生きれないし、
歴史的、社会的な因果の法則の中で生かされてるのも事実だ。
言い換えると自然がないと生きれないし、他人の世話になり、
先人の歴史的智慧の遺産の世話になり、社会の分業のお陰で生きれるのが事実だ。
「感謝」以外に無い!!!!!!〔なかなか徹底してそう考えない傲慢な自分がいる〕

その生かされてる縁の中で、一貫して因果の法則による自己責任で生きるのだ。
これを衆縁所生という。

この因果の法則を無視し、責任を他に転嫁し、
自己を見失って、自己を絶対化する間違った考えに取り付かれてはダメである。
〔傍観者の虚無〕

自分の仕事・人生が積み重なるには、「善因善果」の行動を実行することだ。
他人にも社会にも歴史にも「善き事」を考え実行する中で自分の仕事・人生の結果がつくられていく。

みなさんは「食」=良い人になるを通じて「善因善果」の行動何をしてますか?

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