善行には二つある

投稿日:2012年7月11日 更新日:

善行には二つある
仕事・人生を貫いてる法則は『因果の法則』だ。
病気になるのも自業自得であり、
自分がからだの使い方を間違えて、やりたい放題した結果だ。

私も57歳には始めて大手術をすることになったのは、
誰が悪いわけでなく自分が自分をむちゃくちゃに使っていたんだ。
両親から授かったものだという観念があれば恩返しの意味で大事に遣わしてもらう事もできた。

さて、問題は肉体の事でなく、もうひとつの精神や心の問題だ。
これも全く同じで、考え方や思い方が善因善果となるのが自然の法則だ。
また、人間が成長、発展、進化し意識から解放され無意識の良心(如来蔵識)に目覚めるのが善だ。

ところが人間はだまされないようにと、
逆に自己中心から考え『疑う』『不信』を中心に筋道立てるのが普通だ。
知らず知らずのうちに『悪因悪果』の利己心で考える結果となってるが気づかない。

本能的な欲心を離れ、素直になればわかるのだが、
善行を装うっていたり、あるいは人間のコミュニケーションを表面上だけにして、
深く価値観に触れないで自分を守る処世術を覚えるのである。

私は不器用なので善を装ったり、
浅いコミュニケーションでは自分が磨けないとぐいぐい入っていくタイプだ。

善行について考えてると仏教的善の解説に出会った。
仏教では1)有漏の善(うろのぜん)=小善(中途半端な善)利己心が芽生え、
      見返りを求め、他人を傷つける傲慢な態度。
      2)無漏の善(むろのぜん)=大善(こだわりのない善)利他心で見返りを求めない態度。

明治時代、禾山禅師(かざんぜんじ)が托鉢の途中で、
坂道で立ち往生している荷車の後ろを押して加勢した弟子を破門した。
なぜか?

意味=この弟子は「自分は良いことをした。自分は良い人間だ。」
   このように満足感を持つと知らず知らずのうちに傲慢になる。
   そしていっこうに良いことをしない他人を非難し始める。
   自分は良い人間だと思っているから、
   自分が意識しないで多くの他人の心を傷つけてる事に気づかないから破門したのだ。

道元禅師も座禅をしてるときに火事が起り雲水はみんな飛び出して火を消しにいったが、
泰然自若と坐禅を続行して、坐禅の火を後世に消さないように大善を実行された。

気をつけないと『無漏の善』(こだわりのない善)のつもりで、
自分勝手な『有漏の善』(下心や傲慢になり人を傷つける意識されたこだわった善)を、
していないか自問自答しないといけない。善人面をしないように有意注意だ。

六波羅蜜の『布施』とは見返りを求めない行動だ。
経済の世界で仕事するかぎり特に自分を戒め利己心を抑えることだ。
仕事・人生は頂上のない山登りだから一歩づつ着実に歩み、
利己心と戦って利他心を一番にする努力がいる。

みなさんはどちらの善行されていますか?

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