陽明先生の生き方に学ぶ

投稿日:2013年5月7日 更新日:

陽明先生の生き方に学ぶ
私が23歳頃に勤めたときの社長が教えてくれた三つの人間タイプわけだ。
1.単純正義派
2.勘とろ
3.早飲込み早合点
ご自身は勘とろタイプとおっしゃっていた。
この分類の根拠が今でもわからないが、
私はどうも早飲み込み早合点タイプのような気がする。

というのも早く行動したい願望が強く、
少々の失敗は頭をかいて誤魔化せば良いというぐらい、いい加減だ。
じっくりモノを考え、計画をしっかり練って行動に移すのが辛気臭く感じる。
生来のあわてものに違いない。

だから学問を体系化することが出来ないのだ。
そこで自分に合うことを言ってる人物がいないかと捜してると、
「伝習録」(安岡正篤著)を書いた王陽明(陽明学)に出会った。

「知と行」
知は行の始め、行は知のなるなり、
聖学はただ一箇の功夫。
知行は分かって両事と作すべからず。

意味=知ることは行うことのはじめであり、行うことは知ることに実成であって、
  それは一つのことである。
  聖人の学問はただ一つの工夫あるのみで、
  知ることと行うことを分けて二つの問題としないのである。
実に私には賦に落ちる話だ。

さらにもうひとつ賦に落ちる話がある。
「事上磨錬」
問う、静時は亦た意思の好きを覚ゆれども、
才(わずかに)事に逢えば便に同じからず。如何。
先生曰く、これ徒らに静養を知って、克己の工夫を用ひざればなり。
かくのごとくにして事に臨まば、便ち傾き倒れんとす。
人は須く事上に在って磨くべく、
方に立(得)ち住らん(とどま)。方に能く静にも亦た定まり、動にもた亦定まらん。

意味=問う、「わたしは静かな時には心の働きもよいと思いますが、
何か問題に出会いますと、同じようには参りません。いかがでしょうか。」
先生曰く、「それはただ静養を知って、己に打ち克つ修行を行わないからである。
ちょうど温室の花と同じ事で、そのような状態で事件に臨んだなら、
外力に圧倒されてしまうのであろう。
人間はいろいろな事件と取り組んで自己を磨かねばならぬ。
そうすれば自然に確立して、静時にも安定するし、動中にも安定すであろう。」

王陽明は静を根本と重んじるが、これを獲得すには事上錬磨しなければならないと、
実践の中で学ことを説くのである。
実に私には賦に落ちる話である。
学問はただ知ってるだけでなく、生きてる今応用できなければ本物でない。
私はそんな活学を学びたいと念じてる。

皆さんは陽明先生の生き方どう思われますか?

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