中庸を生きる。

投稿日:2017年2月17日 更新日:

中庸を生きる。
小学校のときに明日が遠足だと思うだけで興奮して寝れなくなる。
明日が受験で滑ったら大学にはいけないと考えただけでも緊張して胃が痛くなる。

誰しも大なり小なり、こんな体験がある。
気の弱い子供は自分に自信が持てず凹んでしまう。
逆に気の強いこは勢いだけで空回りするというのが一般的だ。

論語雍也第六に、
「子曰く、中庸の徳たるや
それ至れるかな
民鮮(すく)なきこと久し」

意味=中庸の徳を備えた人は完全で最高だが、
一般の人の中でおこなわれなくなって久しいね。

私の前段の気の弱い人、気の強い人の話しで言うと、
「中庸の徳」とは人間力(人を包み込む度量)もあり、
技能(頭脳明晰器量)もあるバランスのいい知恵を出し、課題を解決する人のことだ。
何が起こっても普通の対応ができる平常心の人でもあり、気迫のこもった人のことだ。

さて、この気迫、やる気の事では、同じ雍也第六に、
「冉求(ぜんきゅう)曰く、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず。
力足らざるなり。子曰く、力足らざるものは中道にして廃す。
今女(なんじ)は畫(かぎ)れり。

意味=冉求が言う、孔子先生の説かれる道を喜ばない訳ではありません。
ただ私の力が足りませんので行うことができません。
孔子先生が言う、力が足りないかどうかは、力の限り努力してみなければ解らない。
力の足らないものは中途で倒れるまでの事だが、今のお前は、
はじめから見切りをつけてやろうとしない。それではどうにも仕方がない。

論語解説では第一人者の加地伸行先生は、
「君子=教養人(知識+徳(志)人間学、小人=知識人(知識+才(技術)実学」
と解説される。
学問が人間を変えるぐらいの力がなければならない。
それは他人でなく自分を変えることだ。
不安な時代こそ安心を求めて生活に力いれ、
血の出るような戦いの日々から生まれた先人の言葉に耳を傾け実践を通じて体得する事に意義がある。

現実から眼を背けたらり、現実から場所を変えて逃避しても心の平安は得れない。

現実絶対肯定し受け入れ、知恵を出し丁寧に事実に誠実に向き合うしかない。
われわれのような凡人は事実に振り回され、
弱気になったり、強気になって中庸を保てなく右往左往するのも現実だ。

吉田松陰は「誠は天の道、これを誠にするのは人の道」と喝破する気迫の人である。

皆さんは中庸創ってますか?

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