保科正之(会津藩藩祖)リーダー論

投稿日:2012年8月12日 更新日:

保科正之(会津藩藩祖)リーダー論
田中清玄という人物は元共産党員であったが獄中に谷中の全生庵にいた、
白隠禅師の弟子の弟子の山本玄峰老師の説法を受け転向したバリバリの右翼だ。

昭和55、6年頃、三島の龍沢寺の中川宗圓老師(山本玄峰老師の弟子)と、
小田切先生の三人の会合があった。
田中清玄にマンションの玄関には「人間科学研究所」と言う看板があった。

この田中清玄という人物は会津藩の家老の田中正玄の末裔に当たる。
私は会津の日新館という藩校の教育システムや『什の掟』を気に入ってるし、
現代の教育に活かせないかとも考えてる。
藩の500石以上の子弟が11歳から学んでいた。

会津藩の藩祖の保科正之は二代将軍徳川秀忠の子(側室、靜)で三代将軍の家光とは腹違いの兄弟だ。
ところが正妻お江に見つかれば殺されると武田信玄の部下の高遠藩、保科家三万石へ養子に出された。
仲をもったのが武田信玄次女の見性院である。
その後、保科正之は出羽の山形藩二十万石、1643年に二十三万石会津藩へ赴任するのである。

彼は日本のリーダーとしてすばらしい業績を数々残している。
この時代はまだまだ武力による支配をした武断政治だったのを文治政治に切り替え、
三つの改革をする。
1)末期養子の禁の緩和(養子縁組してお家断絶をなくした)
2)殉死の禁止(家光が死んだときも家老が殉死した)
3)大名証人制度の廃止(子供を人質に取る制度をやめた)

さらに、明暦の3年(1657年)明暦の大火で庶民を救済するのに、
火を消す事と後々の炊き出しの救済を一挙にやるため、政府の米蔵の米を解放し、
とってよろしいとした。(その蔵に行くには火を消さないといけない場所だった)
また、九十歳の人には一日当たり玄米5合をやった。
掛け金なしの日本初めての年金制度だ。
もちろん、人口は増えた。
他にも飢饉になったら蔵に米をためとく社倉制を立案、
米を低利で貸し出し豊作まで催促なしにした。

保科正之のような血の通った政策が出来たのは、
出生の生い立ちや、三万石から登りあがってきた苦労人だったからだ。
会津は明治の戊辰戦争でも律儀に徳川幕府を立てて、
薩長と戦ったのは会津家家訓十五条の第一に、
『会津藩たるは将軍家を守護する存在であり、
藩主が裏切るような事あれば家臣は従ってはならない』と書かれていたからだ。

われわれ先人にはすばらしいリーダーがいた。
温故知新という格言があるように、歴史は未来を開くヒントをくれる。

会津では平成14年から『あいずっこ宣言』を中学で唱和している。
    『あいづっこ宣言』
1.人をいたわります。
2.ありがとうごめんなさいを言う。
3.がまんします。
4.卑怯なふるまいをしません。
5.会津を誇り年長を敬います。
6.夢に向かってがんばります。
やってはならぬ、やらねばならね。
ならぬことはならぬものです。

みなさんはどんなリーダーを選びますか、自分がなりますか?

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