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「仁義」について

投稿日:2021年4月27日 更新日:

「書経」には東洋的なリーダーシップ論が書かれている。
政治でも事業でも根本は人間の信頼関係ができなければ円滑に運営ができない。
「政を為すに徳を以てす」とあるように政治の根本原理だ。

では、この「徳」とは何か?
3000年前の中国では、天に代わって治めることだ。
天は人間に愉快な生活をして、健全な社会を営んで欲しいと願っているとされた。
「徳」とは「自己の最善を他者に尽くしきる」ことを意味する。
「完璧主義であれ」というのでなく、ベストを尽くす「最善主義であれ」ということだ。

リーダーは「徳」を磨くことが第一条件で、これを「徳治政治」という。
孔子が学んだのは周の武王・文王の政治だ。
周が殷の紂王を倒して殷による支配から脱却して、「徳」による政治をするのに学んだのである。



さて、その基本的な信頼関係を築くのには「仁」という思いやりがいる。
しかし、それだけでは組織が甘くなると考えたのは孔子より100年後に出てくる孟子だ。
孟子は「義」が必要だというのである。
「義」とは自分が背負った役割に責任感を持つこと。そして、この「仁義」の二つがいると主張した。
「仁」と「義」は柔らかさと厳しさとも言える。この両方が「中」するところに本来の「徳」があると諭した。

日本で「徳」を最も大事にしたのは聖徳太子で、「冠位十二階」を制定するときの最高位の冠位に「大徳」とした。
当時は「大徳」=「いきおい」と読んだ。
奈良時代には天皇は病気や天災が続くと、「朕の不徳の致すところによって…」と声明を出したのだ。
国会でも首相がよく言っているが、自分に勢いがなかったために、災難を防ぐことができなかった。天の意向に反しているからこの事態になったという自らの反省である。
あくまでも大自然の宇宙が親で、人間は自然の循環に沿って生き、神にお仕えすると考えられていた。
「神」とはサンスクリット語で「カミュル」と言い、極微細なるものという意味と、エネルギ―、霊と東洋的には解されている。

現代は人間が自然を征服したのは「理性」であり、「理性」が神になったようで、自然の循環を無視した行為が多くなって、人間の欲望が肥大化し地球は温暖化してきてるように察する。
「理性」は科学を発達させ、モノの世界を唯物論化したが心の世界の唯心論を観念論と否定してきた。

人間の社会は信頼関係によって成り立つことは昔も今も変わらない。
コロナウイルスは、人間に「仁義」を再考することを諭すように天から降ってきたように感じる。

皆さんは「仁義」いかに思いますか?

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