「学ぶ」を遊ぶ

投稿日:2019年6月25日 更新日:

学問には四つの段階がある。
若き時にこのことを知って、安岡正篤先生に学び、
私淑された伊與田覚先生だった。

論語の講義を何度となく聞いた。
やはり学而第一の
「子曰く、学びて時にこれを習う、亦喜ばしからずや。
朋遠方より来る有り、また楽しからずや。
人知らずして慍ず、また君子ならずや。」

【意味】
聖賢の道を学んで、時に応じてこれを実践し、その真意を自ら会得する事ができるのは、なんと喜ばしいことではないか。ともに道を学坊として、思いがけなく遠方から同志がやってくるのは、なんと楽しい事ではないか。人が自分の存在を認めてくれなくても 、怨むことなく、自らなすべきことを努めてやまない人はなんと立派な人物ではないか。

学ぶ喜びが、楽しさが一番でている。
言い換えるとソウルメイトのことだ。
学問の四段階は、
一段階は「蔵学」ひたすら取り入れ蓄積する。
二段階は「修学」蓄積した学びを整理しなおす。
三段階は「息学」学ぶ事が呼吸するように自然なものになる。
四段階は「遊学」学んだ事が事故と一体化することである。

三段階までのことを孔子は「知好楽」と言ってる。
これはすべて相対的だ。
無知だから知、
嫌だから好、
苦だから楽を求める。
そうではなく、「遊」は絶対的な価値観だ。
言い換えると他人を気にしたり、世の為とか大儀をかざさないで自ら行動していく。
認めてもらうことが目的ではない。
本当の自由自在だ。

若いころは学ぶのは抽象的な概念を思えるので苦痛で楽しくなかった。本を読むのも新しい概念を覚えなければならず嫌いだった。
40を越えたころから、耳学問をして学んでいたが、本を読んで学ぶようになった。
知らない事を知る楽しさが喜びが湧いたと同時に志を高める事に気付きだした。
学んで自分の志に生かす、使う。
インプットしたらアウトプットする。
それは事業だった。

「子曰く道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」

【意味】
志に終わりなく道を創っていく、相対的でなく、自らの徳(正しきことをして、やってはいけないことをしない)人の気持ちを察したり、おもんばかり誠実に寄り添い、六芸(礼、楽、射、御、書、数)に遊ぶのである。

学ぶ事は生き生き生きることであり、自分の使命を全うする事でもある。終わりのない旅を志を高め正しい事を全うする。

皆さんは学ぶ事遊んでおられますか?

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