大阪石材社長ブログ

「スーパーのレジ」で思ったこと

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最近太ってきたので、昼は近くのスーパーで「だし巻き握り」を買うことにしている。
主婦ではないのでお買い得の品を探すわけではないが、それとペットボトルの飲み物はスーパーで買う。
自販機で一本130円を支払うお茶が、スーパーなら78円で買えるからだ。
サッサと商品を手に取りレジに並ぶのだが、最近は床に矢印が書いていてそこで順番を待つ。
10台程レジがあるのだが、レジ打ちの人は誰とも競い合わず、またいくら客が並ぼうがマイペースで打つ。
必然的に器用な人とそうでない人の差が出るので、早くレジ打ちを済ませてくれたら…と、待つお客の数とお客さんの荷物の量とレジ打ちの人の速さを見る。
そして、早そうなところを見つけたら並んでいる列を離れて移動する。

昔と比較することが良いとは思わないが、レジの機械が発達していなかった頃はレジ打ちの人が気を遣ってくれて、一生懸命早く打とうとしたり、並んでいる人に「すいませんね、お待たせして」と声をかけてくれたように思う。
今は違う。
レジを打つ人はマイペースに機械のように作業し、コミュニケーションは「レジ袋入りますか」と聞くだけだ。
お客さんの状況やお客さんへの配慮は一切なく、無言で打ち続けている。

機械が発達したことで二つ変化を感じる。
1.人間の機械化(機械に使われている人間、人間のモノ化)
2.目的と手段の逆転(大前提が手段の自明であり、目的は小前提になっている)

ある人は「人間の本質は時間の中で自己を育てることだ」と言う。
アリストテレスも「目的があって手段があるのは個人の決断があるからだ」と言う。

上記の二つの現象はごく普通のスーパーでの動きであるが、個人はレジを選んだだけで手段は選んでない。
ただ待つ時間を少しでも短くしようとレジ打ちの人を選んだだけだ。
手段を選んだだけで、自分で決断した手段でないから、一連の行為に自己責任はなく、ただ早いか遅いかだけの問題だ。実に明快だ。
もう一つ言えることは自分が主体になって自己責任を背負って行動する場合は自分の主人と言えるが、今のレジ打ちの仕事の主体は機械の側にあってレジ打ちの人側にはなく、人は唯作業しているだけだ。
時間の中で自分を育てるという目的がない行動になってることに気づくだろう。
この無責任な行動に慣れたら、判断や決断することなく生き、好き嫌いだけ言っていればいい。

現代はあまりにも何でも機械に置き換えて便利を追求しすぎて、人間の自分に対する責任感が希薄になってきているように感じる。
知ることが大事で、さらに思考することが自分を作り、その思考の想いで行動することが自己実現をする。
自らの判断・決断が自分の成長であり、自分を育てるということだ。

「冷暖自知」と言う道元の言葉がある。
「熱い寒いは現実に飛び込んで自分で知ること」という意味だ。

皆さんは時間の中で自分を作り、どんな現実に飛び込んでいますか?

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