大阪石材社長ブログ

社会人になるには「布施忍辱」

投稿日:2022年5月17日 更新日:

お釈迦さんはイキイキ楽しく生きることを発見された。
以前のブログでも書いたように菩提樹下で瞑想して極端はいけないことを覚り、苦しい修行をすることでなく「苦行無益」と諭される。

この諭しを逆にすると「楽行有益」となる。
お釈迦さんは何をするにも人間は自由にできるが、やらな過ぎると身体も心も鈍ってしまう。
逆にやり過ぎると身体を壊したり心が病んだりするので、当時、サンガと言う集団を作って、朝の起床から贅沢な食事ではなく精進料理を食し、昼からは托鉢に回るが食事はしないという共同生活をした。
規則正しい生活の中に「安心立命」の境地ができる。

ありのままにモノを見ると、すべては変化すること、すべては縁によって成り立っていることを理解し、心穏やかになる。
これが仏教の三方印だ。
1.諸行無常
2.諸法無我
3.涅槃寂静

紀元前100年頃、仏教が大乗仏教へ発展していくようになって、小乗仏教時代の個人の徳目としての「八正道」から「六波羅蜜」に徳目も進化した。
その一つが利他行の「布施忍辱」だ。決してギブ&テイクの合理性でなく、一方通行の与える行為を旨とし、自分は知らん顔して恩にも着せず見返りも求めない行為だ。
この忍辱には三つの忍辱があると「解深密経」に書かれている。
1.「耐怨害忍」(耐忍):人が自分を恨み憎んで害を与えても耐え忍んで報復し ない。
2.「安受苦忍」(安忍):順境でも逆境でも安然として心乱さず、得意も失意の時も心動かさず。
3.「諦察法忍」(諦忍):主観客観とも真空無我の道理を明らかに悟る。加害者・被害者がなく無我の大忍である。(無分別)

人間として生まれたら、小人としての主観から客観を学び具体的に手段を考え、さらに大人として善悪無記の人間の意志から宇宙の意志を手本に、ここで自己を照らすように進化する中をみんな生きている。
どんな人も発展途上人であることは間違いない。
無我の大忍の体得はその想いが強い人ならできるだろう。

さて、ここで夢窓国師のエピソードに無我の大忍の話があるので紹介する。
ある渡し場で雨が降り増水したために、足止めをくった人たちが川の水も引いたのでみんな並んで船に乗る順番を待っていた。
そこへ、酔っぱらった武士がやってきて、順番を無視して横入りした。
並んでいた人は一様に「ずるい」と言いたげだったが、腰の刀が気になって言えなかった。
そこで、夢窓国師が「お侍さん、みんな並んでおるのだから順番に。」と言うと、武士は怒りの感情になって、「おぬしは武士に向かって何ということを言うのだ、なまくら坊主。」と軽蔑的な言葉を言い放ち、刀を抜いて夢窓国師の額に打ち込んだ。
もちろん血が飛び、夢窓国師のお供の弟子はみんな武家上がりの元武士なので殺気立って「おぬしやるか」とその武士に向かった。
夢窓国師は弟子に「たかだか額をさいただけ」と、加害者・被害者の分別をせず言い放った。
「君たちは修行が足らんな」と弟子たちに無我の大忍を身をもって諭されたのである。
そして、その武士はその場で恐れ入って弟子になったという話だ。

人間の本能の利己心をも超えた世界に生きている夢窓国師の姿が目に浮かぶようだ。

皆さんは忍辱の三種類体験されていますか?

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