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「真ん中を歩けないのが人間」

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われわれ日本人は「主権在民」と言って、国民が国の運営者として民主主義の政治的な枠組みで生活している。
最近参議院選挙が行われたが、国民には18歳から選挙権があり、選挙によって政治家を選び、国民の代表として国会に送る。

国民国家の時代を創ったのは、歴史的には中世のハプスブルグ家が支配していた神聖ローマ帝国(今のドイツ)だ。
ハプスブルグ家はカトリック派だったためベーメン国にも信仰を強要したが、それに反発した新教徒たち反乱(ベーメンの反乱)を起こし、30年戦争(1618~1648年)が始まる。
周辺国のデンマーク、スウェーデン、さらに1635年にはハプスブルグ家を亡ぼす目的でフランス(カトリック)がベーメン国(新教徒側)で参戦した。
その理由はイタリア戦争で争ったハプスブルグ家が大嫌いだったからだ。
1648年ウェストファリア条約によって戦争は終結し、宗教和議でプロテスタントのカルビン派を公認した。
まさに、宗教と国家が絡んでいたのがヨーロッパだ。
この時にスイス、オランダが独立し、フランスはアルザス地方の領土をもらい、スウェーデンはバルト海南岸を確保した。
神聖ローマ帝国は独立国家を認め、世界で初めて主権国家体制が確立した。

さて現代の日本は、1945年の第二次世界大戦の敗戦によって連合国軍の占領下となり、アメリカのマッカーサーが来て、従来の植民地支配ではなく押しつけの民主化を進められた。
国権主義や専制主義ではなく国民が責任を共有する体制だ。
戦前、日本人は「鬼畜米英」と叫んでいて、全体主義的行動をしていたが、敗戦とともに急激に変化して動揺した。
国家や政治を信じられなくなり、もっぱら経済的な活動に邁進していって、政治的には1960年代から学生運動が始まり、共産主義的なイデオロギーと労働運動が巻き起こったのである。

民主主義の基本は国家に対しての共同責任を持ち独立自尊の自分が道を選ぶことが求められる。
ギリシャ時代の直接民主主義は女性が入ってないので厳密には民主主義ではないと言う人もいる。
現代は大衆民主主義に変化し、女性、若者も参画するようになり、同性愛者などのマイノリティの権利も法的に認めろという流れになってきている。

本来民主主義は「人間のポテンシャル(可能性)を信じる制度」であるのだが、現実はそんな立派な人ばかりでないのが事実で、現代は2つの大きな課題を抱えている。
1.ポピュリズム(衆偶政治)への危険性
大衆迎合、世論操作の高度化、耳触りの良いデモクラシー(給付金、補助金、減税)の傾向
2.デジタルデモクラシー
デジタル情報に埋没して、SNS、アルゴリズムの中で自分の必要な情報しか見ない偏見者になっている。それに意思決定をせず選択だけすれば良いので、主体的思考の欠如化が起こっている。

今後求められるのは人間として自分で主体的に考え判断する独立自尊の人間形成だ。
世界という概念から地球を外から眺める全体的な知力を磨かなければ本来の民主主義が変形する危うさがある。

国家の未来を考えると「自他相愛の精神」がいるように思う。
自分を愛するように他人を愛する、自分を愛するからこそ心も身体も手入れし磨く。
そうすることは生きることであり、生きることは未来を開く。
志を持って行動するからこそ、命が使われ(使命)、生命力が盛んになる。
私は決して評論家ではないが傍観者でもない。

今こそ柔道の創始者加納治五郎の根本精神に学ぶ時が来ていると察する。
単に柔術だったものを「道」に仕上げたのは2つの根本精神にある。
「精力善用」、「自他共栄」である。
勝ち負けのあるスポーツだが、勝ち負けに拘るのでなく柔術を善用することを第一義に挙げている。
何か綺麗ごとのようで、消極的で受け身の柔道観に思われるかもしれないが違う。
その奥に流れるのは「忍耐力」という日本文化の底に流れる美意識がある。
「恥の文化」とも表現される日本人の美徳である。
そして、上記に書いた「自他相愛の精神」にも通じ、「人に価値を見せびらかすのはかっこよくない、恥ずかしい行動だ」という文化なのだ。

「誠は天の道、これを誠にするは人の道」(中庸より)
まさに人間は不完全で真ん中を歩けないように出来ているのだ。
歴史を紐解けば分かるように、これが良いと言えば右に走り、これが悪いと言えば左に走る。
全く真ん中が歩けないように出来ている。
よくよく自分を内省し客観視する力、自分と違う意見や少数の意見を尊重する態度を身につける時期が来ている。

皆さんは真ん中歩くのにどんな工夫されてますか?

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