妄想主義と理想主義

投稿日:2019年10月22日 更新日:

情報化社会とは、データに基づいてマーケットを支配する事である。
アマゾンで本を買えば確かに便利で、
同じような傾向の人が読んだ本を紹介してくれる。

時短にはなるが、アマゾンに意思決定の情報を委ねて、
自分で探そうとする思考と行動が停止し、アマゾン依存症になる。

便利や時短や効率の後ろ側で脳が退化していくことは確かだ。
モノが無く、生活が困窮してるときは、どうにかして現状を切り開こうという熱意と行動が伴い、具体的な手段を考え実行する。

昔は、現実にはない理想を語り、目指して行動したのが事実だ。
しかし理想は、現実にはない現実を言っていただけで、
言い換えれば空想に近い意味だ。

自分が企てた理想に向かって具体的な手段や方法を考えるために、
知識を得ようと行動し、実現するための経済的な基盤をつくったものだ。

仏教では理想と現実、善と悪のように相対化して考えない。
「善悪無記」といって、相対化を否定する。

親鸞は、
「善悪二つ惣じて存知せざるなり」=善悪は知らない、と言っている。
言い換えると、人間の意識で「分別するな」=相対化してモノを見るな、というのである。
現実の事実のど真ん中で生きろ、と諭す。

江戸時代後期の慈雲(真言宗)は、
「飢え来たれば飯を喫し、困(こん)じ来たれば眠る、
 悟りて何の益がある」と言い放す。

一言でいえば
「現実の只中、如実知見せよ。」
頭で言語化するな、と言っているのである。
理屈ではわかるが、理屈通りにはいかないのが現実だ。

そこで私は「妄想主義」と表現する。
根拠のない直感で思いついたことを正体が解らない妄想をする。

そこが出発点となり、これを総合的に解釈し、現実とのギャップを受け入れ、
そこを創造的に埋めて行き、現実的で具体的な映像を浮かべ、
言語化して「意味」付けをする。
さらに、これを他人と擦り合わせ、客観化する。
そして、試作品なり仕組みをつくって何度も試すのである。

人生は二度とない一回勝負と同じで、
現実もよく似たものがあるが、一回きりの一回勝負だ。
そういう意味では「善悪無記」の状態が現実だ、という事になる。
遠回しな言い方だが、言語表現しようと思えばこうなるのだ。

一休禅師は
「有漏路より無漏路に返る一休み、
 雨降らば降れ、風吹かば吹け」妄想主義と理想主義
人生も今も、ただの一休みと喝破する。

皆さんは妄想、理想どちらからモノを見ますか?

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