易経に習坎(しゅうかん)「坎為水」(かんいすい)という卦がある。
易経の中の四大難卦の一つといわれる。
他は「屯」(ちゅん)「蹇」(けん)「困」(こん)があるが意味は後日書くことにする。
「習坎は、孚(まこと)あり、維れ心亨る。
行けば尚(たっと)ばるることあり。」
意味=坎は穴または穴に落ちる、苦しみが苦しみを繰り返す。
「孚」は誠心誠意現実に向き合う、自分の中は信念を持つ真心の意味。
この苦しみが必ず脱する時が来ると信じる。
人間が艱難辛苦に出会ったときは、事実を100%受け入れ誠心誠意ぶつかれば、
必ず脱すると心を何時に、こつこつ水のように右に左に揺れながら動く。
勝に艱難汝を玉にする。ピンチはチャンスで焦らない。
いつか脱するという信念があれば心は折れないのである。
どう生きのびるのかといえば、信念を持ってこつこつ動くことで、
止めてはならないのだ。止ると折れる。固いと折れる。
「柳に腰折れなし」というように水のように止らないことだと教える。
止らないとは、心だけではない。
肉体を止めない事だ。
「睡眠、トイレ、食べる、のむ事」が心亨るという意味だ。
心は外的な情報を水のように受け流す、柳のように右に左に揺れる。
強くて硬くなれば折れるが、一見弱くてゆれてるものは折れないのだ。
老師は「上善如水」と言ってるのだ。
最高の善は水の働きだ。
水はこの地上の万物の成長を助け、自ら争うことはしない。
衆人が嫌う低い場所に留まってる。だから人間の道だ。
住処として大地を善として、
心の持ち方は淵のようになかなか抜け出せない苦しい境遇のところを善とし、
人の交わりとしては慈しみの心が深いところを善とし、
言葉としては真心をこめ詭弁を使わないを善とし、
政治は乱れを沈め安定した有様をつくるを善として、
行動に対してはその時ぴったり合ってるのを善とする。
原文は「上善如水。水善利万物、而不争。処衆人之処悪。
故機於道。居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。」
これを書きながら私はごつごつした石の様に生き、
他人やモノを介して怒りの火を燃やし生きてきたようだ。
情熱とは程遠いと反省させられた。
皆さんは水のように生きられてますか?