社会に量と質のハイブリッドなモノサシへ進化を望む

投稿日:2017年9月6日 更新日:

役所に行くと手続きすることの書類が増えてる。
第三者が見てわかる証拠を作るようで全く無駄なことをしてるような気がしている。
役所は人権と平等を旗印に逆に自由度がなくなり管理が強化されてるように感じる。

封建社会の身分の差別はいけないと思うが、
数量的で外面的な平等観は天賦の人権を阻害してるような気がする。

「自由で、平等で幸福を求める権利」が明治憲法十三条で保証されてる。
自由も平等も外面だけでなく、多くの体験や学ぶことを通じて内面の精神の成長という観点がほしい。

個々人に差があり、眼に見えないからという理由で、モノサシにはしないのが現代だ。
科学的に証明されないことはダメだ、芸術的な観点を欠落させ無機質な人間を創ってる気がする。
人間の良知を認め人格を受け入れ許しあうことが、本来の個人主義であり、民主主義であろう。

理想論であるのは致し方ない。
何故なら人間の存在そのものが不完全であるからだ。

どんな人も等しく生まれたときに人間の取扱説明書がついていない。
だから、自ら体験と自ら学ぶ中で自分で自分の取扱説明書を作っていくのが生きるというプロセスだ。

死ぬまで完成はされないであろう。
今の体験は今初めて体験する事で、答えは解らないのが事実だ。
しかし、おおよその予想をつけないと、緊張してストレスとなり、体を壊してしまうのも事実だ。

社会のルールは言わば、川に喩えれば堤防のノリ面がルールだ。
人間が水なら、堤防に沿って走るしかない。
もしルールをはみ出せば警察に捕まり刑務所行きだ。

今、働き方改革が叫ばれている。
とても素晴らしい事だ。
従来の行動を変えてよりよい成果を出し智慧を出しあう事だ。
人間だからこそできる業である。

でも一方で、従来の行動が習慣として染み付き、無意識下で仕事していたのが、
行動を変える事で、肉体にストレスがかかり、一時的に緊張状態になるのも事実だ。

人間は意識したものを無意識化でできるようにして、新しい情報を受け入れるようにできてる。
社会の末来を開くなら、習慣化された量のモノサシに質のモノサシをつけるイノベーションが必要だ。

皆さんは仕事や人間を発展させるために、どんなモノサシがいいと考えられますか?

-生き方
-