劣等感と危機感は人間を育てる素晴らしい環境だ。

投稿日:2016年3月31日 更新日:

われわれ世代のエリートは良い大学に入って上場企業に勤めると、
定年まで生活設計ができると考えられていた時代だ。

一流会社に入って、結婚して郊外の一戸建てを買って、
子供を自分と同じ一流大学に行かせるため学習塾に通わせる。

そのルートからはずれた私は落ちこぼれで劣等感の塊だった。
学び方がマイペースでは出来ない。
試験を合格するための記憶勉強と詰め込み勉強だ。
過去の試験の傾向と対策を知り100点を目指す。
ほんとに味気ない学び方だが、物知りになることは間違いない。

アドラー心理学では劣等感をエネルギーにして頑張ることだというが、
本当に自分に当てはまり、自分を正当化出来る。

それに20代後半から始めた事業は自分で決めたわけでもなく、
恩師の一言で決めたもので、業界の状況や仕事の中味を充分理解したわけでもない。
一か八かの賭け事のような判断だったのも事実だ。
(もし、充分考えていたなら不安で怖気づいていたかもしれない)

現実は「お先真っ暗」の状態でどうすればいいか全くわからなかった。
キーワードは「お客さんにとって都合のいいように現状を変える」だけだった。
ところが業界の常識に阻まれて石の買い付けもできず、
販売も嫌がらせを受けたり、工事はあからさまに邪魔される始末だった。

不思議だが既存の保守抵抗勢力のおかげで、
いつも危機意識が持て常識破りをしなければ存在できないぐらい切羽づまっていた。
もちろん資本がないので、人間のできる範囲の改革だ。

落ちこぼれの劣等感と危機感が私を育ててくれたことは間違いない。

さて、戦後の一般の社会を堺屋太一さんが、
1.規格大量生産社会
2.東京一極集中社会
3.教育政策の完全平等化(学校が生徒を選ぶ、競争排除)

これでは入学までの記憶勉強で、入れば自動的に卒業できる。
アメリカの大学は逆だ。
入学は出来るが卒業ができいない。

教育の方針は冒険心や勇気、チャレンジ精神を持った人間を育てるのか?
安全で差別のない社会で協調性のある人間を育てるのか?(言い換えると個性のない)

日本の重点は後者の人間を育ててきたように感じる。
しかし、1980年代には日本の製品の品質が世界ナンバーワンになり、
「ジャパンイズナンバーワン」賞賛されたり「エコノミックアニマル」と軽蔑もされた。
それは協調性のある働き手を大量に高学歴な人材育成の成果だった。

日本は今こそ「劣等感と危機感」を持って世界の立ち向かう時が来てるような気がする。
「効率、安全、平等」を思考するのでなく「非効率、危機、自由」をキーワードに、
工業化社会のものつくりから情報化社会の知識労働へ冒険心、勇気を持って創造力をたくましくする時だ。

世界は日本の江戸時代が創った文化を学び、さらに発展進化させているのも事実だ。
皆さんは今の環境が人材育成の素晴らしいとお考えですか??

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