大阪石材社長ブログ

「依存」と「助け合い」に思う

投稿日:2022年2月7日 更新日:

「会社は公器である」と断言されたのは松下幸之助さんだ。
私もまったく同感で、創業以来親戚縁者は入れないと『他人でカンパニー(仲間)』がリミテッド(限度)というルールでやってきた。
だから、私のリーダーシップは山の頂上に立っているイメージではなく、対等な人間関係であると思って言動してきた。
役割上の職責を各人が自己責任で「自主・自律・自覚」して行うと考えてきた。

社員が仲間を平気でみんなの前で怒鳴りつけたり、保身的な発言をしたら「ええかっこするな」と叱責するし、自分の私心で部下をえこひいきしたりしたら「私心は二番にして会社は公器であるから公人として利他行一番にしろ」と言ってきた。
もちろん、きっと自分に言い聞かせていたのであろうが、家でも同じような役割をやっていたら、家内から「家まで社長はやめてほしい」と要望を出されたが、モノの見方を柔軟にできる度量がなく同じことをやっていた。
さらに、会社では「良い報告はいい。悪いことが起こったらすぐ報告してくれ」と言い放ち、部下を褒めることはあまりせず「成長とは今の自己を否定することだ」と言って、厳しすぎるあまりに人は私に少しずつ距離を置くようになって、裸の王様ようになっていったのは事実だった。

焦っていたのだろう。
早く安定させたい。
自主、自律、自覚した人材を育てたい。
何でも社長が解決するようになって、依存心の強い人間関係になっていると思い込み、社長の責任から逃げたかったのかもしれない。
私が描いた理想とは全く違って、人材はそう簡単には育たないという現実が突き付けられた。
社長なんて誰かの課題解決に触れるものではなく、すべての自己責任の立場だと気づき孤独感に襲われた。
そんな時、生駒の山に登って大声で叫んでいる自分がいた。

「自主・自律・自覚」の目的を掲げて、一番それを実践するのが自分だとしみじみと解かってきた時に、釈迦の「天上天下唯我独尊」という意味の深さを実感した。
自分の人生の責任者であり、自分の思いの主人公でもあるのにも関わらず、依存している自分の精神の在り方が間違っていると気づいた。
自分が自立する哲学を身につけることが必要だと感じて、京セラの稲盛和夫さんに学び、芳村思風さん、中村天風、安岡正篤、森信三、二宮尊徳、上杉鷹山、渋沢栄一などの歴史人物の生き様を学んだ。
学べば学ぶほど「正解はない」ということや「人間は矛盾した存在で不完全だ」という事実がはっきり分かり、自らが正解を創造し行動するから自分が主人公なんだと明確に理解することができた。

日夜誰にも負けない努力で依存しない自分を作って前進し、他人には協力的なアイデアを共有し行動をすることが利他行一番だと再認識することができた。
もちろん本能(利己心)というやつが時々邪魔することもあるが、それが人間の本来の姿だ。
完璧な人は誰もいない。
でも、努力によって一歩でも成長する目的(志)を持つことがさらに自分という主人公を磨いてくれることは確かだ。

仏教には「自利利他」という言葉がある。
同時という意味だ。
自利の追求は利他になり、利他の追求は自利になる。
まさに、「生死一如」と同じだ。
生きることは死ぬこと、死ぬことは生きることと同時なんだ。
「今・ここ・自己」に徹することだ。
心が依存したいと思うか、助け合いたいと思うかは自分が決めることだ。

皆さんの心はどっち向いてますか?

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