和の心

投稿日:2020年6月22日 更新日:

戦後、欧米の文化が入ってきて、すさまじい勢いで欧米文明を模倣するのである。
確かに合理的な都市社会が作られ、地方にもそのような建築物ができた。
もちろん生活様式も必然的に変わっていく、戦後間もないころはちゃぶ台で家族が囲んで夕食をとっていた。
家族がまとまった単位に行動していたが、郊外に府営住宅や公団住宅ができて、
個別の部屋に壁で区切られたつくりになる。家族が集まるのはリビングだ。

このように住宅事情が変わることにより、家族は個族になっていくのである。
さて、日本人が長年暮らしてきた建物は壁でなくふすまで仕切られ、ふすまさえとれば大きな一部屋になる。
しかし、ふすまだから隣の様子はみんな筒抜けである。隠し事ができないようになっている。
公の心と私を一緒にしないと二枚舌になるのである。

ここから生まれる日本の文化は和することで何事にも対立しないで融和することを貴ぶ。
中和=性格や感情が偏らないで穏やかであること。
中庸=儒教用語で極端な行き方をせず、穏当なことをし、偏らず中性なこと。
中道=仏教用語で断・常に二見あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なること。

対立から始まって作られた考え方は欧米の弁証法である。正・反・合といって飛躍するというヘーゲルの哲学だ。
これを使ってマルクスは唯物弁証法を考え、唯物史観とともに科学的思考として一般に知られている。
もちろんこれを使って資本主義社会を否定して社会主義社会・共産主義社会を理想としたのは言うまでもない。

仏教的な観念と、武家社会の儒教的な思考が相まって、日本は対立よりも融和を重んじる気風がはぐくまれるのである。
「私と公」「道徳と経済」「感性と理性」対極にあるものが一つになって変化することが当然と考えるのである。
易経で言うところの「陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる」といったように陰陽は一如である。

公に生きることは私を捨てることではなく、人間として立派に生きることを意味し、それを逸脱すると辱としたのである。
まさに公私一如という考えである。だからこそ、外の世界を変革する事よりも自分を磨くという自分の内を自問自答するのである。

一方、唯物弁証法は人間の理性によって、外を変えていこうというように人間と自然を対立させる知性、理性を手段として、
新しいものを生み出す飛躍の哲学である。
だから、一般的に欧米人を「罪の文化」といい、日本人を「辱の文化」というのである。

ITが発展して、ますます情報がデジタル化して人間の記憶に頼らなくても思考できるAIに頼る時代になる。
そこで必要なことは、人間としての情愛ということを深く受け止める心であり「和の心」である。
まさに、日本が育んできた「和の心」が世界をの平和の柱となると確信する。歴史が積み重ねた最大の贈り物だ。

皆さんは「和の心」育み感じておられますか?

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