大阪石材社長ブログ

「無用の用」に思う

投稿日:2021年2月17日 更新日:

マスコミはコロナウイルスが早く終息して緊急事態宣言が解け、平凡な日常生活が戻ることを声高にまくしたてている。
政府を攻撃し、誰かのせいにして、視聴者が損しないようにだまされないように気遣って、弁護士のように弱いモノの味方をするマスコミの姿勢には違和感を感じる。

私はコロナウイルスのメッセージは、「あくせくするな」脚下照顧(自分の足元を見よ)ということだと思う。
私たちは日頃あくせくして一生懸命働いている。働かないと生活ができないからである。また成長したいという無意識の叫びに追われているのが現実だ。
この根本は現在の資本主義社会の生産体制にあるというのはマルクスだ。
最近日本の株価は30数年前の3万円台になって、1990年12月のバブル崩壊時には3万8千円を上回ったことを思い出す。そろそろ世界に恐慌の影が漂ってきているように感じる。1990年代の前半はビックバンと言われ、山一證券や北海道拓殖銀行の倒産と相次いで金融業界が大変なことになったものだ。
経済的なこともしっかり時流を読む必要があるが、この無意識の成長欲求が行き過ぎていることへの警告に違いない。

では、どうするべきかということになるが、経済面では資金的な手当が重要な気がする。
新聞紙上で飲食や観光業界の大変さを見ると会社もだが働いている人も失業せざるをえない状況で、政府も躍起になって雇用調整金や自粛要請に対する休業補償を5万円とかの日当を出し、経営されている方もいろいろ工夫され対応されている。

さて、もう一つ大事なのは自分精神的な整え方である。
臨済禅では「調身、調息、調心」の三つを坐禅で整えるように諭されている。
コロナの外的条件は三密(密閉、密接、密集)を避けることですが、内的条件は三調を自分が作ることだ。
坐禅でなくても、リラックスして無心になる時間を持てればいいと思う。

思い出す言葉がある。荘子の「無用の用」だ。
山田無文さんが何かで書かれていたのを思い出した。
古歌に「仏法は障子の引き手 峰の松 火打ち袋に うぐいすの声」というものがある。
「障子の引手はきれいに張った障子に一つキズつける、キズがないと不自由だ。何百年来の松は切って使うことのない無用の長物、火打ち袋はキセルを使う旅人には慰められるものなければ不自由だ。(今でいうとマッチにあたる)うぐいすがいくらきれいに泣いても金儲けにも腹の足しにもならない。」
無用の用は現実的には実用性が乏しいが、人生にとっては潤いを与える大切なものだ。
仏法もこのコロナウイルス感染拡大時だからこそ自分を見つめ直す意味で必要な心構えのモノサシになって、自らの心を豊かにし、「足るを知る」いい機会だと感じた。

皆さんは仏法の位置づけどのようになさってますか?

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