大阪石材社長ブログ

「大和こころ(大和魂)」

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本居宣長(もとおり のりなが)(1730~1801年)の詠んだ詩に「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」というものがある。

元来日本は神道の国であったが、6世紀頃から中国を通じ仏教・儒教が入ってきた。
長安を模した伽藍形式の平城京を創建し、仏教を国教とした聖武天皇は東大寺の大仏を日本の威信にかけて造営した。
江戸時代になって国学がさかんになり、宣長は賀茂真淵(かも の まぶち)、平田篤胤(ひらた あつたね)、荷田春満(かだ の あずままろ)たちと『国学四大人』の一人とされ、「古事記伝」や源氏物語の注釈を著し、唐心の漢文の儒教や仏教から脱却し日本の自立意識の表れとして「大和こころ」と詠ったのである。

先日テレビでトーク番組を見ていて、日本通のアメリカ人コメンテーターのパックンことパトリック・ハーラン氏が日本人の「無宗教」観がとても素晴らしいと評していた。
欧米や中東の一神教の宗教は対立を生み、国家間の戦争の根底には宗教間の違いが絡んでいるという。
現実的にはアメリカでもプロテスタントの福音派(新教の保守派)が賛成すれば大統領選も通るというのである。
一方、日本も国内の宗教ではないが旧統一教会(キリスト教がベースの韓国で誕生した宗教)が自民党に選挙協力している組織票だと、安倍元首相の銃殺事件後マスコミが毎日のように報道している有様だ。
パックンは日本人に宗教観がないということでなく、何でも肯定し調和しようとする宗教観の柔軟性に着眼しているように感じる。

では、宗教とは人間にとってどういうものか考えてみたい。
生きていると、死ぬ思いをすることも困難に遭うこともある。宗教はそんな時自分を奮い立たせる心の耐久力や復元力になる心(魂)の基軸になるものに違いないと考える。
人間を超えた大きな力、西郷隆盛さんはそれを「天」と呼び「敬天愛人」を座右の銘として、天と話し合い困難を乗り越えたという。
宗教とは「とらわれない」、「こだわらない」、「偏らない」という基軸で物事に対処することを思い出させる自分の中の信念に気付くものだろう。
ものごとの原理原則、摂理、条理といったものに添うことだ。言い換えると、自然の中で生かされていることを思い出させてくれるものだ。

日本人は神社で神様に拝み、氏子となって七五三をして、教会で結婚式をして、亡くなったらお寺さんに拝んでもらうのを矛盾なく行っている。
これは地政学的なことによると感じる。
四方を海に囲まれた日本にはあらゆる文化が西からやってきて辿り着く。
ところが、日本から東を向いて譲ろうとしたら太平洋を横断しなければならないが、あまりにも東の国は遠いので日本で吸収して消化しなければならなくなったと考えられ、そこで柔軟心が養われたのではないかと私は推理する。
神道の神社神道根強く故郷の自然と一体となり、日本仏教は人間の意識の深さや宇宙観として想像力を伸ばし、儒教からは道義や道徳を学び武士道や茶道、剣道などに高められた。
この狭い日本で無宗教こそが調和し平和に暮らせる幸福の島だったように感じる。

「大和こころ」は大和魂として今日のように成長し、進化してきたのだと察する。
戦前は国家神道となって一心強化し専制国家となったが、終戦後は経済至上主義となって世界第2位のGDPを誇った。
1960~1970年にかけては社会主義が理想と革命のイデオロギー論争が起こったが、社会主義も個人の利益か社会の利益かという違いで、経済至上主義には変わらない唯物論だ。
宗教より階級闘争や人権論争で人間の基軸の心、魂が抜けた物質至上主義になってきた。

今こそ、柔軟な日本人の無宗教の文化を世界に文化発信するときが来たように感じる。
アメリカでは禅が流行っていて、Appleのスティーブ・ジョブズも日本の禅に深く学んでいたという。

みなさんは日本の大和こころ(魂)如何考えられますか?

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