富貴は心にあり

投稿日:2017年4月5日 更新日:

言志録を書いた佐藤一斉の言葉に、

「物に余りある之を富と謂う。
富を欲するの心は即ち貧なり。
物の足らざる之を貧と謂う。
貧に安んずるの心は即ち富なり。
富貴は心にありて物にあらず。」

自分の心が決めているのである。
物を持つ多少という現実的なモノサシで決まるものではない。
心に多少を分別しない無分別の心をつくっておけば、
現実に心は合わせればいいのだ。
之なら何が起こっても平常心になれる。

森信三先生も「真理は現実のただ中にある」とおっしゃってる。

私たちは現実を相対的に見て分別して生きている。
少ないより多い方がいい。
嫌いより好きな方がいい。
損するより得するほうがいい。
悪よりも善の方がいい。

自己中心的に守ろうと考える本能で判断すると上記のことは答えになるのは至極当然だ。
之を仏教では「我」(エゴ)と言ってるのである。
しかし現実は状況が刻々変化するため予測できない事も起こる。
予測できない事を予測して先行き不安や恐怖心を抱くようになるのが「我」(エゴ)の正体だ。

之を妄想というのである。

妄想に振り回されないでいたいと思えばできる。
それは頭で考えない事であると同時に現実を100%受け入れ、
その現実に自分の心を合わせばいいだけだ。

そうすれば妄想はない。
妄想がなければ不安もない恐怖もない。
現実にあわして感じたことを具体的に即行動するだけである。

道元は「冷暖自知」と言って、
坐禅は具体的に只管打座をする(行動を意味する)ことだと説く。
要するに現実を感じ現実の中で行動する事で右左を頭で相対的に分別しない事だ。
(考えない事ともいえる)

仏教では「無分別知」と言ってるのである。

道元は現状公案で、
「仏道を習うとは、自己を習うなり
自己を習うとは、自己を忘れるなり
自己を忘れるとは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるというは、
自己の身心および他己の心身をして脱落せしむるなり」

人間は周りの環境や条件と自分が共生的関連性存在であると説くのだ。
仏教的に謂えば「一如」分別できない存在だというのである。

道元は「有時」でも存在そのものが時間だと言ってる。
「山も川も鳥も魚もみな時間なり」
時間感覚と現実感覚が矛盾してるようだがリアルで一如なんだ。

自分の側に主体があるが相対した我(エゴ)でなく無我の我である。
ここが仏教的世界観の素晴らしいところであり、
歴史の荒波をくぐって今に伝えられ語り継がれてることは間違いない。

皆さんは本当の自分の心の主人公で生活されていますか?

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