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「論語」に学ぶ

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()(じん)第四(だいよん)に「子曰く、朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」とある。
その前のくだりは「子曰く、人の過ちや、各々その(とう)においてす」
「過ちを観て(ここ)に仁を知る」
意味=人の過ちはそれぞれの仲間や心がけからでるものである。
過ちの内容を見て、その人の仁、不仁がわかるものだ。(伊與田 覺先生訳)

勿論、「仁」とは仁愛のことで思いやりのことだ。
その続きに朝に道を聞くという「道」について孔子は何を言っているかを考えると、人間の具体的な生き方の方法ややり方ではなく、「在り方」がわかれば死んでもいいと理解すれば腑に落ちる。

学而(がくじ)第一(だいいち)に「君子は本を務む、本立ちて道生ず」
「孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か」

この前のくだりに「有子曰く、其の人と為りや、孝弟にして上を犯すを好む者は(すくな)し」
「上を犯すを好まずして乱を作すを好む者は未だ之れ有らざるなり」
意味=その人柄が、家にあって親に孝行を尽くし、兄や姉に従順なものは少ない。そんな人は世の中を乱すことはしないと続く。

では、ここで本とは何か?
本=道をどうつかむかとなると「在り方」より「秩序」を守ると考える方が腑に落ちる。「道」とは親に孝行し秩序を本とすることだという意味合いでもある。
当時の学問には本学というのは人間の「徳を積む」ことであり、能力を磨くことは時務学という。

論語で言う道とは西洋のように道を歩いていると分岐点があり、人間は選択して自分の人生を生き抜き、最後の審判で天国か地獄が決まる世界観ではない。

「道」は一本道であるということになる。
人間は完全ではないから、道から外れることも仕方ないことだと考え、反省して本の在り方に戻れば良しとされる。
だから、自分の人生の道は学而第一の学びて習う、学習が「道」の本質である。
今日一日ど真剣に生き、また一つ学び成長することの喜びを楽しむことだというのであろう。

皆さんは論語いかに読まれますか?

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