自分の都合で正当化するために、
事実と異なることを言ってしまうのが嘘で、
事実の原因をすり替えて他人のせいにするのも嘘。
事実の中に自分を見出し、主体になってこそ真実が見える。
ところが、冗談だとか方便だとかでごまかすのが我々凡人だ。
だが事実を事実として素直に認め自分の主観的な観念を外すことを、
仏教的には「如実知見」という。
現代の脳科学では常識とは主観と断言されるぐらい、
人間は個々人の環境や言語の知識、主観的体験の中でしか考えられず、
コミュニケーションが難しくて当然だ。
さて、お釈迦さんがなくなるのは80才で、
晩年に説かれたという法華経の中に方便品第二の話が実に面白い。
日蓮宗はお題目を貴ぶという意味で「妙法蓮華経」を柱にした教えだ。
2500年前にお釈迦さんが現れるまではバラモン教が支配的であり、
お釈迦さんもその出身であったが革命的に普遍的平等感を説くのである。
バラモンが一番偉いと考えられていた体制からすると謀反ものだった。
当時は仏教が小乗仏教の時代で修行者に差別がありブッダにはなれなく羅漢と言われていた。
ところが、内部から平等を説かれるのだから、
出家のみが覚ろうとしている小乗仏教は差別で平等でないという動きが表面化する。
バラモンの階級差別もおかしいと普遍的平等をもめざし、
出家在家、男女を問わずお釈迦さんは説かれていると大乗仏教の思想が芽生えだした。
小乗仏教では仏になる段階を示す、声聞(師の教えを聞いて学ぶ弟子一般)、
独覚[縁覚](師につかず単独で覚りを目指す出家者)、
この二つは二乗不作仏と言って仏になれないという決まり。
そこで大乗仏教では菩薩の意味を覚りが確定した人から覚りを求める人に切り替え、
普遍的平等を確立させた。そのお釈迦さんの説法が「法華経」だ。
方便品第二では本来は三乗の段階的な覚りがあるのでなく、仏一乗だ。
すでに、声聞の人、独学の人、菩薩もみんな覚っていて、役割を果たしている。
今でいえば単なる職階であるということを説かれたのである。
譬喩品第三や薬草譬品第五には詳しくと書かれているので、ぜひ一度読んでいただきたい。
恩師小田切先生には事実を素直に見聞きしろと「頭を空っぽのコップにして見ろ聞け」
これが如実知見だ。
今の脳科学では常識は主観と断言されるぐらい、人間は主観性で生きている。
有漏=主観と置き換えると、一休禅師の言葉を思い出す。
「有漏路より無漏路へ変える一休(ひとやすみ)
雨降らば降れ風吹かば吹け」
皆さんは主観に振り回されて有漏有漏(うろうろ)してませんか?