「言志四緑」の言志晩禄」に君子と小人の違いについて書いてあるので紹介する。
「人は苦楽なきを能わず。
ただ君にの心は苦楽に安んじて、苦あれども苦を知らず。
小人の心は苦楽にわずらわされて、楽あれど楽を知らず。」
意味=人は誰でも苦楽はないということはありません。ただ君子は苦楽をっそのまま受け入れ、 苦の中にあり苦しむことはない。小人は苦楽にわずらわされて、楽あっても楽を味わうことができない。
安岡先生の「六中観」には「苦中楽あり」と教えています。
凡人の我々は苦しみは苦しみとして、悲しみは悲しみとして感じ、一喜一憂するのが仏いうです。
現実に起こったことは消し去るわけにはいきません。どう対応するかには三つあります。
一つはその場を逃げる。(自分の人生を背負ってない臆病者だ)
一つは目をそらしてなかったことにする(現実をごまかして生きる。何の解決もしない。)
一つはその現実に飛び込んでいき、喜びや楽しみを見出す努力をすることだ。(前向きに生きる)
荀子は学問の目的を次のように言ってる。
「夫れ学は通の為に非ざるなり。
窮して困(くるし)まず、憂えて意(こころ)衰えざるが為なり。
禍福終始を知って惑わざるが為なり」
意味=学問は立身しゅせのためにするものではない。どんなに窮することがあっても苦しまない。
どんな心配事があっても意欲を失わない。
そして物事というものは何が禍で何が幸いであるのか。どう行えばどう終わり、どう終わればどう始まるのか。こうしたことがよく分かっていれば惑うことなく対応していくことができる。
これが学問の基本的なことだ。
「論語」の憲問遍には、
「古(いにしえ)の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす。」
意味―昔の学者は自分の修養のためにしたが、今の学者は人に知られんがために学問をしている。
言い換えると自分を創るというのが学問の基本だ。
中国では学と芸を別にして、芸には六芸といって、礼(礼節)・楽(音楽)・射弓術)・書(文学)・御(馬車)・数(数学)
技術論として学ぶのである。明治以降日本は「学」が少なく知識と技術のみになってしまっていった。
自分を創るには学芸一如で学ぶことであろう。
皆さんは学と芸についていかが学ばれていますか?