今朝(6月21日朝)、少し早く起きたので5時から始まるNHKの「心の時代」を見た。
臨済宗妙心寺派の正眼寺の山川宗玄老師の話だった。
言葉少なめだが含蓄のある魂に響く語り口調で解りやすかった。
「無」の世界は高い集中力から生まれるというのである。何かにこだわって集中するという段階から、 意識をどこにも置かない集中、全体に集中することだというのである。朝起きて顔を洗い、朝食をとる。
そして、部屋を掃除する。学生なら学生の日常がある。その平凡な日常に集中する。
ふと、小学校4年生の作文を思い出した。先生にこっぴどく怒られたのはよく覚えている。
「朝起きて顔を洗ってご飯食べ、学校に来て勉強して家に帰る、そして夕食を食べて寝る。昨日と同じ今日だった」
私は親に保護され、自分の力で生きようともせず、周りにも関心がない自分の姿がそこにあった。(その時は気づかなかった)
その時は何で怒られてるのかわからない。山川老師はこの平凡な中に「日々新たに」毎日は同じことをしているが昨日とは違う新しい今日だというのである。
生きるということは日々新たに、今に生きることだ。禅の世界に飛び込んだのは生きることに悩んでいて、
悩んでいてもおれる場所は禅の修行だと思ったから飛び込んだ。老師は腰が弱かったらしく背筋を伸ばして坐禅する。それが終われば作務をする。
一日中腰を使い、くたくたになり辞めたいと思われた。そこで早く腰をつぶすために修行を倍も三倍もしたら倒れて救急車で運ばれると修業したそうだ。
一心不乱に厳しい修行に励んだが、いっこうに倒れない。睡眠も一日二時間ぐらいなのに倒れない。ある時今日は後一時間半寝れると思ったのが、
「一時間半もある」と逆に考えるようになった瞬間、何もかもほぐれてきたと語られた。動機が不純だったが、倒れたいと一身に修行したら、
1、発心が起こり、2、持続心、3、決定心へと結果なった。言い換えると1、自己究明2、生死の解決3、他者救済へと進化するのである。
禅では現成(げんじょう)私が選んだわけではないが、今のあるがままの命を受け入れることから始まり、現実から逃げないで、現実に飛び込んでいききる。
生かされてる命を精一杯生き抜く、そこに生死はなく、日々同じことをしても新たになるという心境だ。小学校の私は命に無関心だっただけだ。
四書五経の大学に出てくる言葉で「日新、日日新、又新」
意味は「今日の言動は昨日より新しく良くなり、明日の言動は今日より新しく良くなるように修行に心がける」
殷の湯王が洗面の器に彫り付けて、毎日自戒の句にしたそうだ。元経団連土光会長の座右の銘でもある。
禅では過去も見ず未来も見ず、今に生き抜くことが生死を超えることだというのである。(無分別知)
この自分を決定して自我の世界から無我の世界に住むのである。楽しい話だったが実践することが大事だ。
皆さんは昨日の自分より少しはよりよく生かされてますか?