「言志四録」に学ぶ

投稿日:2020年8月30日 更新日:

これは佐藤一斎が書いた本である。
人間の心は誰に従えば全うできるかということだが、西洋では中世の神の支配から解放されて人間の理性を頼りにしてきた。
理性を否定するわけではないが、元来不完全な人間の理性を頼りにすることが、全てうまく行くのかは現実の世界を見ればわかる。
ソ連が崩壊前は米ソの冷戦時代があり、昨今はGDP世界第二位に上った中国と貿易、ITでの首位争いが世界を巻き込んでいる。

科学技術を発展させ、宇宙の一部の法則を理性で探し応用できるのは、神から与えられたと傲慢になっているのが今の人間のように思う。
東洋的な考え方では、言志四録198条に「わが心則天なり」とあるように、
「人間の性は善なりと言えども、しかし躯殻(くかく)の設け、もと心の使役に趣きてもって善をなさしむるなり。」
意味=人の本性は善であったとしても、身体がなければその善を行うことができない。
天が身体を設けたのは、身体はもともと心に使われて、善をさせるためである。
自分の身体は天の器に過ぎず、天の用がまだある以上死ぬことはないのである。
ところが現代は理性を基本として自分の価値を作り、頭で心も体も操ろうとする。
理性は意識を生み、意識は自分の好き嫌い、損得が基準になる。

一方、孔子は「天の時、地の利、人の和」どんなにいい時でも、地の利がなければ事は成就せず、地の利がよくても人の和がなければならないと断言している。
「仁」(思いやり)をもって「礼」を守り「義」を貫くことで人心がまとまるというのである。

さて、「天」に従うとはどういうことかと考えれば、実にシンプルなことである。
言志薹録106条に「自ら欺かず、これを天に事うるという」
意味=人に対してではなく、何より自分を欺かない。至誠を尽くすこれを天に事うるというのである。
事業において他人はごまかすことができても生産に携わっている社員はごまかせない。
至誠とは自分自身をごまかさないことだ。

神仏がいるかいないはわからないが、小賢しい人智を超えて一切を取り仕切っている大宇宙が存在することは確かだ。
人間の世界ではそれを「良心」という。誰もが心の奥に持っている魂、素心というものだ。
これは人間すべてに共有できる。ところが人智で考えた理性的なことはだいたいあっているが本質的な真実の近似値に過ぎない。
間違っているわけではないが、あってもいないのだ。マルクスが考え付いた唯物弁証法も一理はあるが真実ではない。

ところが、すべてを現実から考え編み出した方法が正しいと考え、世界は新しく社会主義社会まで作ったが、独裁的な全体主義に陥って、ソビエトは崩壊、現在の中国の政治は共産主義、経済は自由主義的な二重構造で新しく取り組んでいる。

自由主義が正しいとか社会主義が正しいとか議論しても意味がない。自由には自己責任という重い枷がある。
好き勝手にできるというのが自由ではない。社会主義には強制という不自由な権力行使がある。

言志録二条に、「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす。」
意味=最上の人物は天を師とし、その次はすぐれた人物を師とし、その次の人は聖賢の書を師として学ぶ。

皆さんは自分の理性と意識が師ですか、天が師ですか?

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