この国のかたちとリーダー像(歴史を振り返って)

投稿日:2012年8月9日 更新日:

この国のかたちとリーダー像(歴史を振り返って)
江戸時代は経済的な発展よりも士農工商の身分を維持する事と、
幕府に反旗を翻さないように参勤交代や高野山への各藩の菩提を弔う石碑建立させた。

いつに、藩財政に余裕があり、武器を買って戦闘準備されては困るからだ。
一方幕府の財政は逼迫するのである。
現在は医療費とか社会保障費の増加だが、
元禄、宝永のころになりますと庶民文化が盛んになり、
元禄景気に湧き役所の経費も膨大になってきた。
その中でも大奥経費が莫大であった事から改革が始まる。

これが八代将軍吉宗(紀州)が始めた享保の改革(1716から1793年)だ。
当時の財政は80万両のうち大奥経費は20万両だった。(今のお金で20万両は約160億)
吉宗は大奥の美人の腰元を集めた。
われこそ大奥一番の美人だと自負するものが集まった席で言った。
『君たちは美しいから相手も見つかるだろう、だからリストラする』
改革が終わったときには幕府の蔵には100万両あったといわれてる。

質素倹約を旨に改革をしていったが、
悪者にされてる家老の田沼意次が目をつけたのは商人から税金を取ることだ。
今までの重農主義から、重商主義に視点を置いて株仲間を創って酒、米の商いに
税をとった。
しかし、これが利権となり、賂をもっていくようになったから賄賂政治家呼ばわりされる。
また、中国への貿易を推し進め、あわびや、ホタテ、なまこなどの乾物を作らせた。

その後は寛政の改革(1787から1793年)松平定信が執行し、
36歳の二宮金次郎を小田原藩の新田開発を命じる。
天保年間には大きな飢饉が起こり、天保の改革が老中水野忠邦によって行われる。
この時も二宮金次郎が召抱えられ600か村を新田開発し立て直した。

商品の物流が盛んになり、貨幣経済がどんどん進行し明治に向かっていき、
文明開化となり欧米の資本主義的経済体制がつくりあげられていくのである。
幕末フランスに行って銀行制度を学んだ渋沢栄一が、
現在の第一銀行をはじめ百数十の銀行を作った。
因みに標準語が出来たのも明治になって、役所で方言ばかりでは意志が通じなかったからだそうだ。

民主党が消費税問題で仲間割れになり、
野党と組んで法案を通そうとして国家の方向性が見えてこないのが現状だ。

歴史を紐解けば吉宗や上杉鷹山のような人物がいる。
骨太のリダ-待望論が出るのも致し方ない。

みなさんはこの国の形とリーダー像お持ちですか?

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