生國魂神社は大阪の上本町にある。
縁あって「結の玉」を奉納させていただいた。
ホームページを見ていただければ写真が載っている。
神主さんに聞けば、参拝の人は玉を撫でて縁に結ばれるよう願いを込めておられるそうだ。
もちろん、魂を磨く縁である。
さて、神社の中には他にも有名な人の銅像がある。
井原西鶴(1642~1693年)江戸時代寛永に生まれた人物である。
大坂の浮世草子や人形浄瑠璃の作者であり、「日本永代蔵」などの本を書かれている。
江戸時代の町人の暮らしや浮世の面白さを書き記し、以下の言葉を残している。
「人間は欲に手足の付いたるものぞかし」(人間は欲に手足がついたものだな)
「欲は人の常なり、恋は人のほかなり。」(恋心は人の分別をこえる)
読み物の一つに、長屋住まいの貧困にあえぐ夫婦を描いた愛がテーマの話「世間胸算用」がある。
「程なう大晦日の暮れ方に、この男無常おこり、我、大分の譲り物取りながら、胸算用の悪しきゆえ、江戸を立ち退き、伏見の里に住みけるも女房どもが情けゆえぞかし。大福ばかり祝うてなりとも、新玉の春に二人会うこそ楽しみなれ。心ざしのあわれや、かん箸二膳買い置きしが―――」
「(女房が奉公に行った後)この男は、多額の親の遺産を手にしたのに破産して、江戸にいられなくなり伏見の里に住むことになった、女房がよくできていたので男は甘えっぱなし。大福茶だけで祝うのであっても夫婦二人で新年を迎えるのが楽しみなものだ。正月用に箸の新しいのを二膳用意してあったが一膳はいらないと折ってしまい鍋の下で燃やす。夜が更けて子供が泣き止まないので長屋のかみさん連中が集まって子供のお乳の粥の作り方を教え子に飲ます。一日だが子はやせたような感じ。『あんたは可哀そうだな、女房殿は幸せもんだ。奉公先の旦那は、きれいな女を使うこと好みだ。この前亡くなられた女房とは似たとこがある。後ろ姿の色っぽいところがそっくりだ』それを聞いて男は走って女房を取り返しに行って、涙ながらの一家の年越しをした。」
これだけの話であるが、今の世の中で考えたら、女性が強くなり自立しているので、こんな男とは離婚だということになるだろう。亭主が改心してハッピーエンドも考えられるが現実はないだろう。
もう一つないのは、長屋の連中が何とかみんなでご飯を食べさせてくれるというコミュニティ人情だが、この選択も孤独死が多くなり、独身者が3割の現代では考えられないでしょう。
長屋人情はプライバシーの侵害かもしれないが、私の小さいころには一軒隣のおばあちゃんの家でご飯食べ一緒に寝泊まりしていた。
時代は逆戻りしないが、人間として同じ感情が共有できない社会に違和感を感じるのは私だけだろうか?
皆さんは長屋人情いかが思いますか?