大阪石材社長ブログ

「令和維新の哲学」

投稿日:

明治維新を起こした下級武士たちは朱子学でなく陽明学を学んでいた。
安岡正篤さんは陽明学の始祖である王陽明を「人間の創造し得るもっとも荘厳なる人格」と評している。

江戸幕府の学問所、昌平黌(しょうへいこう)で学ぶのは朱熹の朱子学であった。
朱熹は「先知後行説」と言って、万物の理を極めてから実践に向かうと説いた。
これと全く逆なのが王陽明の陽明学だ。その根本的な見方には3つある。

1.事上磨錬(じじょうまれん)
「事上」は「実際の事に当たりながら」、「磨錬」は「練り磨く」という意味で、実際に行動や実践を通じて、知識や精神を磨くということである。実に現実的だ。単なる空論ではない。

2.知行合一(ちこうごういつ)
意味は「知識と行為は一体である」ということだ。本当の知は実践が伴わなければならない。
『論語』為政第二にある「まずその言に行い、而して後に従う(意味:行為を知って行わないのは、未だ知らないことと同じだ。)」という言葉と通じている。
行為を伴わない知識は未完成だということだ。
知識には「記憶」(思考する材料)、「思考」(本質と現象を練る)、「行為」(証明の手段)の3つが実践の中で一体のものである。知は行であり、行は知である。

3.致良知(ちりょうち)
「良知を致す」と読み、「良知」とは人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力で、普通には「良心」ともいう。
人間は「心即理」で、生まれながら心と身体(理)は一体であり、心が後から加わったものではない。
その心が「私欲」(利己心)で曇っていてなければ、個々の本来の理と合致する。
良知は私欲によって曇ってない状態だ。
王陽明は「実践に当たって私欲によって曇ってない心の本体の良知を推し進めよ」と言い、そこにこそ尊厳なる人格を磨き上げる主体が浮かび上がると確信した。

現実の具体的な課題を解決するには「能力」が必要だが、「私欲」に曇ってない良知の心があれば、まっしぐらに事上磨錬しろと言う陽明学の教えは、明治の志士たちは倒幕に勇気をもらい、一命を落としてもいいという覚悟が出来たと察する。
目的は一命を落とすことではないが、竹刀や木刀で戦うのでなく真剣勝負の刀で戦うため現実の中で自分磨きに没頭したのであろう。

「令和維新」とは、福祉国家でもなく株主資本主義でもない自分と向き合う哲学を磨く実践者を育てることだと私は考える。

皆さんは令和維新の哲学如何に考えられますか?

-生き方
-