「常楽我浄」ありたい自分を。

投稿日:2019年2月19日 更新日:

欧米では小学校や中学で末来の進路を決め、
自分が一生、生活していくための手段として職業を択ぶ時期が早い。
TO DO (したいこと、なりたい)ということでなく、
TO BE (ありたい)自分と向き合い仕事の道を決め、
学んで実力を磨くというのが一般的な生き方で学校のカリキュラムになっている。

たとえば日本では営業職か事務職、肉体労働の技術化サービス業の接客。
あるいは技術を生みだす研究者や学者ということになる。
現代はマスコミやデザイナーや企画立案や企業のコンサル志望といろんな道がある。
この職業分類はあくまで自分がやりたい、なりたい自分を想定してる。

ところが、欧米はもう一歩進んでいて保険業に携わるなら、
徹底した専門家として、保険論はもとより、金融、心理学などの専門知識も身につけ、
ライフプランを設計する事ができる絵描きであり、緻密な建築家である素養を磨くのである。
(一生食べていくためにだ)
まさに、「ありたい自分」を創造し、自らを学んで創造していくのである。

自分に磨きをかけることが当たり前の世界観がある。
競争と信用という経済的な価値が優先され現実的になっている。
現代の情報化社会はあらゆる情報が手にはいりやすい時代でもあるが、
基本的に大事なのはその中で「自己のありたい姿」を創造し行動する姿勢が重要だ。

日本人は「志」というように漠然と自分を捕らえる傾向がある。
この志の意味するところは自分という自我からの発想でなく、
あくまで社会性であったり、ある人のためであったりする。
言い換えると、「世のため人のため」という大義をかざす」
自我の欲望実現でなく、無我の自分から発想することをよしとする。
欧米が正しいとか日本的が正しいと議論することには感心はない。

では、なぜ日本流の発想があるかというと、
仏教的に目指す「涅槃」の意味するところの影響が強いと感じる。

「涅槃」とは解脱するという意味で、
人間が本能から起こる精神的な迷いがなくなった状態(涅槃寂静)ことを言う。
「悟る」とか「死」を意味する場合もあります。(詳しくは後日書く)
それはどんな状態かと言う事を表したのが「常楽我浄」ですね。
こんな状態でいつもいられる人がいるか疑問だが、
一切の迷いや苦しみから解き放たれ常住不変である状態で「常」、
そして迷いがないのだから「楽しい」そして欲望が主人の「我」でなく、
自由自在で拘束されない「我」(無我という我)を得るというのである。
その状態は人間の本能から解脱しているので清らかで「浄」という。

こんな事いくら理屈で知っていても、
実際にその状態を具体化することができるかできないかが重要である。
私のような凡夫は「知っているがやらない、できない」か、
「知らないがやれ、できる」と意識と行動がばらばらなのである。

さらに、もう二つの分類は「知らないし、やらない、できない」
この人は「知らぬが仏」気楽な人ですね。社会とは交わらない人でしょうね。
もう一人のタイプは「知ってるがやろうとし、できるように努力する」人だ。

御釈迦さんが亡くなる時に弟子たちが言いました。
「明日から私たちはどうすれば良いのでしょうか?」
御釈迦さんは「心配ない」
「自分を信じ、私の説いた法(ダルマ)を実行しなさい」
これを仏教では「自灯明」法灯明」と表現してます。
言い換えると「自帰依」「法帰依」(自分に頼り、法に頼る)という意味です。
「常楽我浄」葉お釈迦さんに貰うものでも、寺や神社にお願いするものでも、
親に貰うものでもありません。
筋肉を鍛えるように筋トレや運動して、自分で創るものだというのである。

天から降ってこないかなと怠け心を出すのは私だけだろうか?
ほんとに幸福実現したいと強くおもはないと!

皆さんは「常楽我浄」どのように自分で創られてますか?

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