認知症の人がいるグループホームでお世話になった母が亡くなったのは10月27日だ。
もうすぐ二年になるので三回忌の法要を10月14日にすることにした。
人が老いるというのは幼児のように返ることだと思う。
幼いころは、洋服を創ったり、着物の仕立ても頼まれるほどに何でもできた人だった。
ところが、身についた技術や伯母から育てられた礼儀作法や努力して学んだ学問や一芸、
強靭だった肉体もすべてのものがはがれるように、
頭や肉体から離れていき、物心つく前の幼児になって行った。
息子である私を見て「お父さん」というのである。
老いるということは別れる、剥がれるといってもいい。
「習慣が第二の天性」といわれるのは剥がれないように、
身体や頭から離れないように習慣化する努力がいる。
一方人間の思考には三つ良いことがある。
1.体験を多く積み現実の問題に向き合って解決の引き出しが多くある
2.練れる(いろんな角度から柔軟にモノを練る、固定化しないで多面的に見る)
3.考える。(深く物事を考え、完成に近づいていく解決を導き出す)
さて、努力には二つの意味がある。
1.身体も頭も学び体験した事が老いないよう繰り返し鍛錬する努力
2.人間の苦しみの根源は「我が心中にあり」で、
己が変わること(現実に心をあわす)によって喜びに変える努力。
運命は変わる。
運命に埋没して流されるのも生き方だが、
与えられた運命を変える努力を「立命」という。
命には生まれた国や時代によってどうも変えれないものがある。
これを「宿命」という。
しかし運命は「因果の法則」の数(努力)に従って変化している。
この法則がわかれば、自主性、創造性が高まり、法則に支配されないで生かすことができる。
具体的な例が「ニュートンの万有引力法則」を生かして科学的に応用されている事と同じだ。
それには「努力」がいる。
1.良きことを考え良きことを行動する(利他行)
2.最後まで諦めないでやり通す。
3.死ぬまで体験し学び続ける。
禅ではこれを「己事究明」と言って、自分の能力、性質が見えてくるまで学問修養するのである。
学問修養しなければ宿命(動物的・機械的)になり、運命の法則に流されてしまう。
逆に運命を開くには学問修養の努力がいる。
道元が宗に渡って如浄禅師に問いかけたのは「なぜ仏性があるのに修行するか?」であった。
人間はいくら学問修養しても老いていく存在であるということだ。
毎日、頭と身体に繰り返し教え込まないと老いていくのである。
言い換えれば、考えられなくなり具体的にできなくなり幼児に返ってしまうのだ。
道元は「身心脱落」という言葉に悟りを開くのである。
それは運命を変え、自主創造し、三つの努力を積み重ねることに気付いたのである。
禅を伝えるという天命に目覚めたのだ。
私にも志がある。
供養の心を石材に託し、世界中が「和を以って貴し」をシンクロする平和な世界の実現だ。
志は大風呂織だが、まずは足元をしっかりすることから始める。
皆さんは老いていく現実如何おもいますか?