タイトルの言葉は、京セラ創業者である故・稲盛和夫さんの経営姿勢を書いた「京セラフィロソフィー」の中にある言葉だ。
経営をどうしてやるのか全く無知だった私が一番衝撃を受けたのがこの言葉だった。
42~43歳の頃、社員も30人近くに増え、リーダーの指示でみんなが行動することができなくなった。
どうやって組織を作り、どうすれば運営出来るのか考えるようになり、大事なのは理念だと考え、近江商人の「三方良し」をベースに稲盛さんの「利他行」を率先してやるべきだと考えた。
お役に立てば必ず信頼を得る、自らは技術力を磨き、人間力も磨いていけばいいと漠然と考えていた。
ところが、経営にはどんな些細なことでも判断しなければならない場面がいっぱいある。
人間は欲があるから頑張れるし、信用を得るには苦しいことも厭わないで努力できるが成果がほしい。
よく考えると、成果があるかないかで判断している自分がいることに気付いた。
創業10数年が経ち規模は拡大したが、「勘定合って銭足らず」の例えのように経費が先に出ていきお金がない状態で、具体的な売上げが欲しいと思っていたことは事実だ。
そんな時に「私は、人間として正しいか正しくないか、良いことか悪いことか、という正、不正、善悪を判断基準にしてきた。経営も人間が人間を相手に行う営みなのだから、そこですべきこと、あるいはしてはならないことも、人間としてのプリミティブな規範にはずれたものではないはずだ。人生も経営も、人間を律する道徳や倫理に則して行われるべきだし、また、その原理原則に従えば、大きく間違いをしなくて済む。」と書かれた文章を読んだ。
「人間として何が正しいか」という言葉に衝撃を受けた。
私は恥ずかしくなったが、現状もあるし、すぐには呑み込み実行できなかったのが事実だ。
それからは「40にして迷う」の例えのようになかなか覚悟ができなかった。そして、57才の時に心臓病になって手術を受け、治してもらった時に改めて、私はやらねばならないことがあるから命が救われのだと正直思いました。
「人間として何が正しいか」
道徳的・倫理的な原理原則を判断の基準にするという実にシンプルなことだが、どんな状態にあっても冷静に実行することが経営には問われると身に染みて理解できた。
経営とは私的なものが微塵も入ってはいけない公のもので、働く「生きがい」「喜び」を創造し、周りにも喜びの種を蒔く、社会の機関だと再認識させられた。
子供を授かったのと同じで、社会から預かったものだから大切に育てなければならない使命がある。
故・稲盛和夫さんは我々未熟な経営者に自ら範を示して問い続け、社会を明るく発展に導かれた人物に違いない。
みなさんは「何が正しいか」どう考えますか?