道元は如浄禅師の「身心脱落」という言葉で悟りを開いたという。
私たち人間は「身体」と「心」を持っている。
身体は使わないと衰えるし、鍛えれば強くなる。
「健康に気を付けろ」と人には良く言うが、私も日頃から身体も心も使いっぱなしだ。
「健康」とは「健体康心」の略で、「身体は健やかに肉体を維持し、心は康らかにする」という意味だ。
心は目に見えないが、身体と同じように心も自分で鍛え磨くのである。
身体の方は剣道や柔道、サッカー、ラグビーとスポーツなどの運動で磨けるが、心の磨き方は分からないのが一般的だ。
中村天風は「人の心はその人をつくりもするし、壊しもする」と言う。
現代では心なるモノを物理的に解明しようと科学が発達して追求する面と心理学から解明する面があるようだ。
一方、古来は仏教の禅の悟りからもアプローチされている。
「心」に関して、以下のようなことわざ(沢庵禅師の『不動智神妙禄』にある句)がある。
「心こそ 心惑わす心なれ 心に心 心許すな」
そうなんです。
天風さんが言うように、「心」は五感を通じて外から情報を入れ、自分の体験などから六感を働かせ、自分にとっての良し悪しを決める。
言い換えると、心には自分の利己心を守るセンサーがあって、物事の善悪を決めたり、信じたり信じなかったりしてるんですよ。
主観的にですよ!
だから人に対して心を閉ざしたり、社会に対しても心閉ざすということがある。
これを自閉症と言うのでしょう。
病名はともかく、心の親は誰なのかを突き止めねばなりません。
人間を創ったのは一体だれか?
寝ることによって昼間に行動した疲れが自動的にとれるのは誰がやっているのか?
人間の身体と心の親は「自然」と言うことになる。
身体は寝ると疲れが回復するように出来ているのである。(自動疲労回復装置付き)
だが、寝ても回復しないのは心だ。
自律神経が興奮し、自分で心を閉ざしているからだ。
自分で心開いて人間を信じることだ。
「自然」=氣=四方八方に使える=無意識=主人がいない(公)
「心」=意識=一つしか使えない=主人がいる(私)
「心」を自由自在にするには「氣」を通すことだ。
「氣」を通すには話をさせること。
「氣」が通ると見える範囲が広くなり、周囲を感じ、全身で捉えることができる。
そして、聞くことによって気を循環させる。
コンサート会場などで何万人があの興奮を一緒に感じるというような気の通い合いが実現する。
自分の心に振り回されないで、気分良くコンサート会場にいるように自分のオーラ(氣)を出して、毎日楽しく明るく元気でいれることが幸せだ。
皆さんは心に振り回されず幸せですか?