現代の日本文化は、ベースとして仏教的なモノの見方が支配的だ。
しかしそれは「苦は楽の種」と言ったように、苦行を実行しなければならないというネガティブなモノの見方だ。
2500年前の原始仏教はそうだったのかと考えてみると、推測だが「空」の概念や「無」の観念が理論的に完成されておらず、もっと現実的な「苦からの解放」だったように感じる。
現実的に考えると、「社会的な自我」と「人間的な自我」の両面の事だ。
一つは当時の社会の掟と言うかルールですね。
以前にもブログに書いたことがあるが、6年間の修行を終えた釈迦が菩提樹の木の下で瞑想し、スジャータから山羊の乳粥をもらったのはよく聞く話だが、当時のインドはカースト制度があり、若い女性から出家者が直接物乞いをするというのは非常識な行為だったが釈迦は平然とやった。
もう一つは人間としての「苦からの解放」だ。
人間は「三毒」(=人間であるから本能的に利己的な貪・瞋・痴の心)を持っている。
意味は、1.欲しい欲しいとむさぼる欲望
2.他人を妬んだり、憎んだり、怒ったりする感情
3.無恥のために他人の悪口を言ったり、理解できずに愚痴る心
この3つを集約すると、基本は「怒り」、すなわち思うようにならない苦しみを元来持って生まれてくる。
この怒りを鎮めて平安な心を創れば「苦から解放」されるのだ。
お釈迦さんの残された仏典には次のような言葉が書いてある。
「律経」パーリ語
「真理を見ることができれば孤独は楽しい
生きとし生けるものに対して、悲しみを持つことは楽しい
貪欲を捨て去り、欲望を超えることは楽しい
我と言う慢心を制することは最高に楽しい」
「大般涅槃経」パーリ語
「バイシャリーの樹木は楽しい。ウデーナーの霊樹楽しい。
サッタンバカの聖地は楽しい。バフブッタの聖堂は楽しい
サーランダダの社は楽しい。チャーバラの殿堂楽しい。
この目に映る景色は、すべて楽しい。」
仏陀は目に映るものすべてが美しく、感じるすべてが楽しいという思いになったことが解る。
言い換えると、「苦の思想」から飛躍して、「楽の思想」にステージを転換したのだとも言える。
仏陀が言いたかったことは、当時の人は「あれもダメ、これもダメ」では日常生活が息苦しかったので、「苦」から「楽」へ転換して、楽しい現実を説いて回ったように察する。
決して「苦」を否定しているのではない。
「苦」をベースにもう一段飛躍した「楽」の境地を実践して見せたのだろう。
ここで大事な方法が2つある。
1.現実に何が起こっても絶対肯定して100%受け入れる心を創る。
自分以外のすべてに無条件で感謝する。
頭を垂れて、両親・兄弟・仲間・先輩・後輩・先祖、それに物、(自然を含む)事象のすべてに感謝する。
2.そのことを言葉(言霊)にして、自分の心に言い聞かす。
自分が自分の心に声を出して「怒らず、恐れず、悲しまず」(中村天風)
現実絶対肯定、消極意識を潜在意識に送らず心から放り出し絶対積極意識を創る。
もちろん息を調えること、坐禅して丹田に気を集めることも実行すれば効果ある。
天風が言う「心ひとつの置き所」とは、まさに仏陀が日常生活をする人に伝えたかった「楽の思想」だ。
皆さんは「苦の思想」ですか「楽の思想」ですか?
「楽の思想」
投稿日:2022年5月13日 更新日: