現代は科学が飛躍的に発展を遂げ、あらゆる物理的な法則が解明され、その恩恵を生かして、人間は月にまで行って帰ってくるという偉業を為したのは事実だ。
さて、人間は二つの要素で成り立っている。一つは物質としての肉体ともう一つは精神だ。
肉体について科学的な法則を見つけ、あらゆる病を治し回復させるように現代はなっている。
一方精神はどのように「苦から解放する」のに答えるのは宗教だ。
宗教には二つの考え方がある。
一つは絶対者を想定したキリスト教やイスラム教のような解釈する宗教と、もう一つは神秘的に何でもできる何者かという設定の宗教だ。
「苦から解放する」精神を科学的に解明しようとすれば宗教ということになる。
そこで、現代の日本の仏教は時代とともに偶像化しているので原点に戻って釈迦の仏教を考えてみる。
釈迦は29歳で人間の「生老病死」からくる苦から、カピラ城の王子の座を捨て出家することにしたのだった。
最初の3年間はインドの仙人と言われる人を訪ね。
「生老病死」を克服し苦から解放される思考はないか尋ねたが、期待外れだった。
そこで、3年間自らの肉体修行に切り替え山にこもって断食行を実行することになった。
しかし、このままやり続ければ死ぬことになると悟り下山して、町娘のスジャータにヤギの乳をもらって命が救われる。
35歳になって釈迦は菩提樹下で坐禅をして悟りを開き、その後は80歳までインド中を歩いて説法する。
最初の説法は鹿野園で仏教の根本教義である「四諦六波羅蜜」を説かれたというのだ。
釈迦は「苦の消滅」するのには苦行修行と瞑想修業があると考え、今までやってきた苦行による修業のいきつくところは「死」だと解ったので、菩提樹下に座して瞑想の方を選んだのである。
苦行にしても瞑想にしても、苦の消滅が目的として努力する行動がいる。
そのために釈迦が考えたのは「自活の放棄」自分で生活しないという環境に置く、生産性しない生き方である。
言い換えると人に頼って生き、乞食になることだ。
人間が努力するということは「自己改造する」ことを目指すことだというのである。
釈迦の仏教は誰でもできる「科学的自己改造の仕組み」ということだ。
決して神や仏が存在するわけでもなく、魔法のような神秘的なこともない、ただ在り方を説いたに過ぎないのだ。
自活しないので、生きるために考えたのが「托鉢」である。
托鉢には「利他心を養う」目的があった。
弟子が「托鉢にはお金持ちのところへ行きましょう」言ったら、釈迦は違うといった。
「貧乏な人のところに行くのだ」と答えた。
弟子が「なぜですか?」と問うと。
釈迦は「人に施す喜びを味合わせてあげられるからだ」と。
釈迦は「苦からの解放」は自分で出来ると証明し、瞑想により精神集中すれば、宗教というより科学的な自己改造システムが出来上がったのだ。
釈迦は超越者から啓示を受けて世の人々に広めようとしたのでなく、奇跡的神秘を信じさせるでもなく、釈迦が目指したのは他の人に自分の体験を伝え、同じ方法で精神の向上を成功させることにあったといえる。
まさに因果の法則であり、因縁の法則だ。
皆さんは釈迦の仏教は宗教と思いますか?

「科学と釈迦の仏教」に思う
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