偶然と必然

投稿日:2012年8月17日 更新日:

偶然と必然
偶然とは予期しない出来事、原因がわからないで起る出来事、思いがけない。
必然とは当然そうあるべきこと。それ以外にありようがない。

私たちは偶然にこの世にでてきたと考えると善悪、好き嫌い、損得の分別をしてしまう。
しかし、必然的にこの世にでてきたと思えば、善悪、好き嫌い、損得の分別はしなくていい。
自分にとってよいことが起ろうが悪いことが起ろうが100%受け入れ、
対応を考え解決するだけだからだ。

中江藤樹先生は『好悪の色に心をとどめねば 柳はみどり花は紅』と表現してる。

両親には青年になるまで育ててもらったのだから感謝しかない必然だ。
偶然は利己心の主体を産むが必然は利他心の主体となる。

子供のころは何もかもが偶然で新しい事への発見で感情が高ぶった。
そのうち分別する自分が出来、
損なことに近寄らない、悪を嫌い、嫌いなことは無視するようになる。

私は優等生でなく落ちこぼれだったので、普通の人の逆をやった。
損する嫌いなことを選んで行動した。
理由は二つ、
ひとつは競争が激しくなく自分の能力でも出来る。
もうひとつはそんな事で自分の存在をわかってもらいたかったからだ。
悪いことは気が小さくて怖くなるので、あまり手を出さなかった。

また自分を出し惜しみするのが嫌いだ。
全身全霊でぶつかっていく、テクニックもなく真正面からしか出来ない。
こんな性格が知らず知らずのうちに『必然』から発想するようになっていた。

そんなときに正岡子規の言葉に出会った。
彼の『病床六尺』という本の中に、
『禅とは平気で死ぬ事かと思っていたら、平気で生きることであった』

彼は六尺の身体で栄養をしっかり取り、病気に負けず平気で生きたのだと知った時、
これまた偶然で生きてると思ったら病気にこだわり、自分だけがと腹がたって生に執着して、
自分を生かせなかっただろう。
病気を必然と受け入れたからこそ、平気で生きれ俳句をつくったのだ。

論語の第九子罕(しかん)に、
「子、四つを絶つ。意なく必無く固なく我なし」
意=私意(私心)私の価値の損得、好き嫌い、善悪
必=執着で、必然=諦観の意味ではない。
固=頑固
我=利己的主体の自我

みなさんは自分が生まれたのは偶然だと思いますか必然だと思いますか?

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