儒教は孔孟思想と老荘思想と別で説かれているものが多いが、いったいどう違うのかを読むと、老子の道徳経の初めに書いていることが、孔子とは違うと言いたいところだろう。
【原文】
「道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名万物之母。
故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其徼。」
【書き下し文】
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして、その妙を観、常に有欲にして、其の徼を観る。」
【意味】
「これが「道」だという道だと言い表せるような道は、偉大なる不朽の道ではない。
これが「名」だと呼べるような名は、真実不変の名ではない。
天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられた。」
老子が言いたいのは、言葉になれば、それは不変の真理ではない現実世界の事だということだ。
ところが、孔子は丁寧なので、どうしたら本質を理解した行動ができるかを書き記しているのである。
『論語 衛霊公 第十五』より
【書き下し文】
「子曰く、君子、義を以て質と為し、礼を以て之を行い、孫以て之を出し、信を以て之を成す。君子なるかな。」
【意味】
「道義を根本とし、礼によって行動し、へりくだって物を言い、誠によって事を成し遂げる。こういう人物が真の君子だ。」
これは五徳と言って「仁・義・礼・智・信」という立派な人間になる方向を指し示している。
「仁」について、孔子は弟子の燓遅(はんち)に「人を愛すること」と言い、顔回には「己に克(か)ち、己を克(よく)し、礼に復(かえ)ること」と言った。
前者は外に対する解説で、後者は内に対する行為を言っている。
さらに、『論語 顔淵篇』では「己の欲せざるところを、これを人に施す勿れ」と「万人に思いやりの心で接することが「仁」だ」と言っている。
また、孔子は人間が不完全であることを良く踏まえた上で『論語 学而第一』で次のように述べている。
【書き下し文】
「過てば則ち改まるに憚ること勿れ」
【意味】
「過てば改むるの誰にも遠慮することはない。」
と述べており、老荘は人間の言葉にしたものは語らないを貫くが、孔子は不完全な人間に「在り方」、そして本能に振り回され無秩序にならないよう「秩序化」を求め、心の主人になることを導く。
珠玉の言葉を使って、自分の内に外にと場面によって使い分ける。
『論語 里仁第四』の次の一文は実に深い。 【書き下し文】
「子曰く、朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり。」
【意味】
「自分の生きる道が内から聞こえたら、朝から夕方までそれに従い命を燃やしたら死んでも悔いはない」
私はこの一文に、内からの声聞こえることが少ない自分がいることに気づかされた。
みなさんは、孔子は理想論を言ってると思いますか?