「道」の解説には三つあるというのが安岡正篤教学の言うところだ。
私も「道」についてのブログを二件投稿したが、『その一』では「道」は学習システムとして自ら自分を磨くことを意味すると述べた。
そして、『その二』では老荘と孔孟の違いについて解説し、見えないものは語らない老荘と、孔孟は見えないものをあぶりだす方法として「在り方」を問い、本能的には無秩序になるのを「秩序化」し、それに導く現象の具体例を挙げて、現実的で具体的行動を提示した。
『その三』では、さらに大所高所に立って俯瞰した立場で儒教そのものを三つに分け喝破する安岡流について述べていく。
儒教は、人間が一生の間にいかに妄想や妄行から当然・必然・自然に到達するかということの教えであるとする。
儒教を分類すると「孟子」の理想主義派と「荀子」の現実主義派があり、どちらかと言えば、孔孟系統の方は現実主義派であり、老荘の方が理想主義派である。
「孔孟」派は、人間は自然から出て発達したものであるが、発達と同時に堕落(無秩序)もするという考え方だ。
本能とは五欲(食欲、色欲、睡眠欲、財欲、名誉欲)に目覚めることで、人間としては当たり前に備わっている。
「睡眠欲」というのは寝ることでなく、度を越して動かない、楽したいという欲、「財欲」は金品をもっともっとと欲しがる欲、「名誉欲」は自分はよくやって偉いと思う欲のことを言う。
言い換えると、人間は現実に行動できてなくても、若い時には理想主義となり、社会生活すると現実主義となり、老年になると自然主義になるように出来ているようにも思う。
仏教では「煩悩即菩提」という言葉があって、人間が立派に生きるのを妨げる煩悩があるから菩提心が生まれるのであって、その二つは一体のものだと考える。
一見矛盾しているが両方あるのが事実だ。
一休禅師は「有漏路より無漏路へ帰る一休 雨降らば降れ 風吹かば吹け」というように、この矛盾の中を瞬間生きるという。
論語の中に、『曽子曰く「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか」』という一文がある。
意味は「私は毎日、自分をたびたび振り返り見て、良くないことは省いておる。人の為を思って真心からやったかどうか。友達と交わって嘘偽りはないか。まだ修得していないことを人に教えるようなことなかったかと。」という文である。。
人間は不完全な存在であることを認めた上で、秩序だった在り方に導く、老年には自然主義へ誘う指南書なのだ。
みなさんは人生の旅を俯瞰する「道」についてどう思いますか?