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「今、なぜ渋沢栄一なのか」

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渋沢栄一が生きた時代背景には商工業を発展させ経済性を豊かにすれば、社会に多くの仕事もでき、国家も安泰するという思いがあったに違いない。

江戸時代の士農工商に分けられ、住む場所まで指定され、職業の選択もできない不自由さから解放し、諸外国とも誰でも取引できるような社会を描いていたと察する。

武蔵野国の農家の長男として生まれ(1840年3月16日)、15代将軍徳川慶喜公に使え、実弟の水戸藩徳川昭武に随行し、パリ万博に行き銀行制度を学び、1868年に日本に帰ってくる。

その後、明治政府の民部省の官僚となり、大蔵省へ行って退官し、シーボルトや井上薫とともに、第一国立銀行設立するのである。
だから、「日本資本主義の父」と言われるのである。
その後は実業家として株式会社を500社ぐらい育て上げるのである。
しかし、ただお金儲けだけするのではなく、もっと大きなスケールで考えていたのである。

栄一の言葉に「各個人は、国家や社会の一つの分子である。一挙手一投足がみな国家や社会に影響し、各個人だけで完結するものではない。その失敗は国家や社会にまで影響し、死んだとしてもその責任は免れることはできないのだから、人は自分だけのことと思って勝手なふるまいをしてはならない。」

「商工業者は文明の開拓者である。先導者である」

「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という流行語もあったようだ。
(散切り頭=当時のちょん髷を切った髪型)
この時代は百姓が85%公家や僧侶が1.5%、町人5%、武士は7%で、約3000万人が当時の人口だ。
武士は百姓の税金として、5公5民と言い半分税金としてとっていた。
豪農と言われるのは一部でほとんどは水飲み百姓と言って食べられなかったようだ。

しかし手放しで近代化を進めるのでなく以下のようにも言っている。

「物質文明の進歩は、どうかすると仁義道徳と相いれないことが多い。その弊害として極端な個人主義となり、わがままな思想となり、ついに経済と道徳とが、分離、分裂して、かえって文明の退歩を促すおそれがある。
一部の実業家の中には、利益さえ得られれば仁義道徳は関係ないと考えている者もいる。これは甚だ誤った考えで、もしこのような人が海外貿易などに携われば、自分一人の欲だけを追って、不正や不道徳な行為をして、小さくは外国人の信用を失って我が国経済の発展を阻害し、大きく国際間の紛争を引き起こさないとも限らない。実に警戒すべきことである。」

儒教で「孟子」が説いた「仁義礼智」に対して、栄一は「仁義忠孝」を説いた。
仁=人を思いやる心
義=自分の不正を戒める道徳心
忠=私心なく真心を尽くす心
孝=親や祖先に尽くす心

「論語と算盤」は相反するもの出なく一体になっているという考えであり
「義理合一」 「道徳経済合一」とも表現していて91歳まで生きた。

栄一はいつも社会や国家と同じ呼吸を吸っているといった感覚が強い。
「人は孤独なものでない。いかに山の中で暮らしていても、この世の食事を食べている間、その生活は、他人の共同生活に影響を及ぼしているものである。だから、人は生まれてから死ぬまで、社会の一員として、重い責任を負わねばならない。
その責任とは「働く」ということである。」

「働く」というワードで思い出すのは鈴木大拙老師だ。
95歳でこの世を去った大拙老師も90歳でインド政府に招聘され、94歳の時も行かれた。
晩年付き添っていた岡村美穂子さんが老師に「長寿法」はと問われて、返ってきた答えは「仕事こそ人生なり」だったそうだ。

栄一さんも社会をよくし、国家を健全にするという思い、大拙老師は13年アメリカに在住し禅文化の普及にかけ互いの共通するのは「働く」「仕事する」ことだったと察する。悩んでいる暇がなかったのであろう。
大拙老師は「知行合一」「生死一如」の実践こそが禅だとおっしゃる。

皆さんはなぜ今渋沢栄一かどう思われますか?

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