ドラッカーは「知識労働者」を強調する。
工業化社会が肉体労働を機械に置き換え、人間の肉体的苦痛から開放した。
情報化社会でのITで情報をジャンル分けや関連するものを提供くれ、人間の記憶と整理から解放した。
さらに、IoT(モノのインターネット化)やAI(人工頭脳)の進化が劇的となる現在こそ、
人間が何のために働くのかの本質的意味が問われる時代でもある。
巷にあふれる飲み物の自動販売機は誰からも褒められることなく、
雨の日も風の日も黙々と働いている。
人間はその「でくのぼー」に販売する商品を入れる作業員である。
人間がマニュアルワーカーで機械に動かされるのである。
もっと進化すると自動販売機にポスシステムがつき、
本社のコンピューターに売れた商品の情報が入ってきて、
補充の商品がすべて数量までわかるようになるに違いない。
これが自動販売機のIoTである。
若者はマニュアルワーカーを望みナレッジワーカーは望まないにもかかわらず、
ドラッカーは働くとは創造的な知的労働者になれというのである。
それには、現実の社会の変化を理解し、自らの知識を深め創造的な発想と行動力で、
顧客感動を生み出すことである。
顧客は価格以上の感動を味わいたいと欲するのがごく自然だ。
働くことは顧客の役に立つとともに感動を提供する創造的行動があり、
働くものの達成感や満足感やりがいが生まれる。
先進国の大企業は労働賃金の安い地域の労働力を求めコストを下げる競争をする意味は、
国内の労働力が外国の安い労働力と比較されコストカットされることも同意味する。
言い換えれば、国内の労働力がマニュアルワーカーからナレッジワーカーへ進化し、
人間に感動を与え、役に立ち幸福を味わってもらう働き方が今後重要になる事h間違いない。
自動販売機は文句も言わず、のどの渇きを感じる人に24時間役に立ち働き続ける「でくのボー」だ。
宮沢賢治は自動販売機イメージして「でくのぼー」といったのではない、
自分を磨く諫言として言ったに違いない。
「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ、
丈夫な身体を持ち、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑ってる。
一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分の勘定にいれず・・・・・・
東に病気の子があれば、行って見舞ってやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負いー
・・・・・・日照の時は涙をながし、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにでくのぼーと呼ばれ、
褒められもせず、苦にもせず、そういうものに私はなりたい」
私の働き方では自動販売機にすら劣ると感じさせられた次第だ。
皆さんは宮沢賢治の詩どう感じますか?