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「上位に立つ者の心得」に思う

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『大学』(儒教 の 経書、『礼記』大学篇)に「上に立つものはまず己の身を修めなければならない」と書かれている。
「格物致知」を言い、「知」とは物を知り弁(わきま)えること、「致す」とは推しつめて定静安虜(ていせいあんりょ)の場(静かに定まり、安らかな虜となる)に至ることを言う。「知」を致そうと欲すればまた物を致さざるを得ない。しかし「致知格物」は二つに分けられない。「物」とは天下国家身心意の六者のこと言い、「格」とはその先後順序を正すことであり、「物を致す」とはすなわち格物と知ることができる。

そこで「治国平天下」にいたるまで、すべて心に基づかないものはない。
身を修めようとすると、まずその心を正しくしないわけにはいかない。
「正」とは偏らず、寄りかからず、まっすぐに行くことを言う。
だいたい心は、形もなく声もなく、喜怒哀楽の七情から好悪を生じ、好悪から身勝手な思念を生じ、ついには身が修まらず、天下は平らかにならなくなる。
身に先立って心を正しくせざるを得ない。

また、心の中には意がある。「意」は心の働き出る処で、人間感応の元である。
人間は常に感じつめているものであり、死んでいるか眠っているかでなければ感応せざるを得ない。
心を正しくしようとすれば、まず「意」を誠にしないわけにはいかない。
「誠」とは明徳を明らかにする根本であり、この工夫努力は自らを欺くことであり、その意を「誠」することは、また知を到たらさざるを得ないのである。

そこで、一言「正」とは「「一」に「止まる」である。ではその一とは具体的にどこなのかというと、論語の里仁第四に参考になる一文があるので紹介する。
「子曰く、参や、吾が道は一を以てこれを貫く。曽子曰く唯(い)子出ず。門人問うて、曰く何の謂(いい)ぞや。曽子曰く、夫子の道は忠恕のみ。」
意味=『参よ、私の道は一つの原理で貫いているよ。曽子先生「はい」と答えた。先生は満足げに出て行かれた。他の門人が「どういう意味ですか」と問いました。曽子が答えて、先生の道(原理)は忠と恕だよ』

この文章からは「正」は「忠」と「恕」だということになる。
「忠」とは「心」の「真ん中」と書くので「真心」のこと、「恕」とは「如」の下に「心」で支えているように書くので、相手は自分と同じという意味で「思いやり」と言うことだ。

言い換えると、人間の止まるべきところは「忠恕」であり、現代的に言うと「良心・本心」と「思いやり」だと表現されるのは稲盛和夫さんだ。
人間には欲がある。そして目に見えない心には意があり好悪が生じる。だからこそ「何が正しいか」をいつも自問自答し判断決断することが経営には必要だと説かれる。
まさに、宇宙の法則に従って生きろと方向を示されているように感じる。

日本人の遺伝子には身を修めることこそが上に立つもののリーダーシップだという感性が諸子百家時代の四書五経から現代まで時空を超えて受け継がれているようだ。

皆さんは上に立つ者の心得を如何に思いますか?

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