未来の人物像に思う

投稿日:2015年2月13日 更新日:

イスラム国はなるべきしてなったようだ。
鎌田 實先生の話を聞く機会があった。
1月に中東の難民支援の医療団を出したり、
妊産婦に出産のことについて学んでもらうため看護師さんが指導に当たる活動をされてる。

資金は自分の書かれた本の印税を拠出されて支援なさってる。
現実的で行動力もあり本当に菩薩のような活動をされてると感じた。

自分が何ほどのことをしてるかと自問自答すると恥ずかしいが、
携わってる仕事の中で具体的な行動を一歩でも高めたいと真剣に取り組んではいる。

さて、もともとイラク戦争でフセインが倒されて、
その国家官僚だった人も政府指示していた市民もイラクにいられなくなり、
難民化しシリアに逃げ出さざるを得なくなったそうだ。
宗教的なシーア派、スンニー派という派の違いにもよる(イラク政府は今はシーア派)
一部の過激派の人は村を占領しては国家機能のように組織的な行動ができるのも納得だ。

さて「神は完全で、人間は不完全だ。
人間は不完全を生きることによって謙虚になれる」
このように語られるのは感性論哲学の芳村思風先生だ。

日本人は世界から「あいまい」「優柔不断」「玉虫色」と実にわかりにくい人とレッテルが張られてる。
自己正当化する気持ちはないが、自然に恵まれ四方が海に囲まれた環境がはぐくんだ性質に違いない。

宮参りは神社、結婚式は教会、葬式は仏式を矛盾なく受け入れる。
江戸時代士農工商の身分さの中で農業を主としたことも手伝って、
自然と共生することが優先されたに違いない。

だから欧米や中東のように経典を「信じる」ということでなく、
自然に畏敬の念を持ち敬い、八百万を神とする「感じる」世界観が優位になった。
世界と日本は「神」に向き合い方が根本のところで違うように察する。

だから、旅館の女将さんのような気配りもできるし、
何かしら他人に合わせて喧嘩のないように生きる生き方を無意識に体得した。

テレビ番組で「モニタリング」という番組があり、いろんな実験をしてるのを見た。
ある実験で、バスに乗る時仕掛け人が靴を脱いで全員が乗ると、
全く知らない人が状況を見ていて靴を脱いで乗る。
そこでイタビュアーが「なぜ靴脱いで乗られましたか?」と質問すると、
そんなバスがあるのかなと思ったと、環境に順応することを無意識に選ぶ行動をする。

実験はしていないが欧米人ならきっと、怒って乗らないほうが多いのではないだろうか?
このような行動が村意識を作り、良い意味では助け合いである、
悪くでると排他的な島国根性といわれる所以だろう。

日本の助け合いや気遣いや、たためば一枚になる着物、扇子、
寝室も食堂、居間にもなる畳の部屋にあこがれる海外の観光客が増えている。

最近の経済学でも「生産」と「消費」と別々に分析する経済学でなく、
「消費」と「生産」が一体となった経済学の視点がいると強調されてる。
言い換えると遊びと仕事が一体である、
良い塩梅のハイブリッドな人間が未来の人物像ではないだろうか?

皆さんは如何思われますか?

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